「引き揚げ」世代最後の親睦会「安東会」と東京で味わう現代満洲料理
引き揚げ者の人々との交流
筆者は満洲国からの引き揚げ者団体である満鉄会や大連会、奉天会、長春会(以上はすでに休会)などの関係者にこれまで話を聞いてきた。 それらの人たちは幼少期に過ごした満洲国と敗戦から始まった抑留生活や引き揚げ道中の重い体験の歴史的な意味について、それがどういうことだったのかを正しく理解することが自身の宿命のように考えたのだと思う。またその思いを共有できるのは、引き揚げ者のみだということで、こうして長く親睦を深めてきたのだろう。 筆者は、2010年代の中頃、水道橋にあった満鉄会の事務所に何度か通って、戦前に発行された満洲関係の資料を閲覧させてもらっていた。満鉄会とは、戦前、日本の満洲経営の中核を担った国策会社「満鉄(南満州鉄道株式会社)」の元社員や家族で構成されている会で、当時専務理事で『満鉄を知るための十二章』(2009年、吉川弘文館)という著書もある天野博之さん(故人)にこんなことを言われたことがある。 「君は何のためにこんな資料を集めているのですか」 そのとき、筆者は苦笑して次のように話した記憶がある。 「それは私に『引き揚げ3世』であるという自己認識があるからです」 それを聞いた天野さんは虚を突かれたような表情をしていたのをよく覚えている。そのとき、筆者が言いたかったのは、引き揚げ2世である天野さんたちが歴史的「真実」を追い求めた理由はよくわかるけれど、そのあとの世代の役割は、その歴史を踏まえ、この地域を含めた日本と極東アジアの現在および未来の行方を探ることなのだという思いだった。 ところが、残念ながら、満洲の現在の地勢や社会、文化を知るためには、戦後に書かれたもので役立つものは少なく、戦前に書かれたもののほうが現地の事情やそこに住む人たちの思いに対する理解を深めてくれると感じることが多かった。天野さんにはそうしたことは理解できなかったかもしれない。 その後、筆者は安東会に出席するようになって、毎回登壇し、いろいろな話をさせていただいた。「引き揚げ3世が見た21世紀の満洲」と題して、現在の高速鉄道も走るほど発展した丹東の様子を話したこともある。そして、今年は「東京で食べられる満洲料理(中国東北料理の世界)」という話をした。 正直に言えば、幼少期に安東にいた人たちが、現地の料理を知っていたか、むしろほとんど知ることはなかっただろうと承知していたが、今日の東京には、中国東北三省や内蒙古自治区から来た人たちによる「ガチ中華」、すなわち満洲料理が食べられる店がたくさんあるという話をしてみたかったのだ。 いまから80年前、100万人を超える日本人が満洲に住んでいたわけだが、今日数十万人の東北(旧満洲)出身者が日本にいること。そうした歴史的なつながりが日本で「現代満洲料理」が食べられる理由だと話したところ、大半の人たちはピンとこないようだった。 無理もない話だが、筆者の親しい東北料理店「神田味坊」のオーナーの梁宝璋さんの話をすると、皆さんには関心を持ってもらえたようだった。梁さんは、1963年、黒龍江省チチハルの生まれ。1995年に来日したが、母親は残留孤児で、彼は引き揚げが叶わなかった2世の子供なのである。 そのとき、会場からは、その店に行ってみたいという声が少なからず聞かれた。筆者はちょっとうれしかった。機会があれば、今度、安東会の人たちを神田味坊に案内したいと思っている。
中村 正人