飯間浩明さんと牟田都子さんが語り合う「変わる日本語」。
昔もいまも変わらない、国語辞典への確たる信頼。
飯間 ところで、この記事が掲載されるころには、三省堂から「今年の新語2023」が発表されます。 牟田 SNSでもたくさんの応募があったようですね。もっとも、中には「『三国』を引いたらとっくに載っている言葉なのに」と思わずツッコミたくなるものもありました。 飯間 たとえば“爆誕(ばくたん)”が辞書にあると言うと驚かれるんですが、もう20年以上使われています。 牟田 「まだ辞書に載っていない」と思った人を責めたいわけではないんです。ただ、ふだんから辞書を手元に置いて引いている人はそれほど多くないのかな、と思うと寂しくなるというか。
飯間 辞書は皆さんが思うほど古くないですよ、と訴えたいな。現代の生活に役立つことを載せています。 牟田 ひところに比べて、みんな辞書を引かなくなりました。半面、辞書に対する信頼というのは、依然として根強いですよね。 飯間 SNSを眺めていても感じます。「辞書に書いてあるからこれが正しい定義だ」とかね。でも、辞書はあくまで言葉をわかりやすく説明するもので、そこに書いてない使い方を否定してはいないんです。 牟田 辞書を作っているのは同じ人間ですから、そんなに崇め奉らなくてもいいのにと思います。 飯間 そうなんです。辞書は正解を示すものではなく、言葉への理解を深めてもらうものでありたい。こんな使い方もあるよ、面白いね、と。それがうまくいってないのかも。 牟田 飯間さんは以前、辞書を作る身として、読者を騙しているような気持ちになるとおっしゃっていましたね。言葉には白も灰色も黒もあって、つながっているのに、紙面の都合で白と黒だけを載せる。それが辞書を作るというお仕事ですよね。そのジレンマが、私にも少しわかる気がするんです。 飯間 校正というお仕事にも、そういう面がありますか。 牟田 そうですね。ゲラに書き込む提案としては、ある程度白黒つけざるを得ないこともある。でもゲラを戻した後、いつまでも「あんなふうに聞いてしまってよかったのかな、乱暴じゃなかったかな」と。ですから、ゲラを戻してすっきりしたことなんて、いまだかつてないんです。何か読み間違えたのでは、余計なことを書いてしまったのでは、もっと辞書や資料に当たれたのではと。常に後悔というか、手放しがたさというか、罪悪感があるものを本当にもう引き剝がすようにして戻すので。