飯間浩明さんと牟田都子さんが語り合う「変わる日本語」。
牟田 私、“わかりみ”や“めっちゃ”をわりと使ってしまうんです(笑)。校正者としてはいかがなものかと思ったりもしますけれど、言葉一つ一つを取り上げて、正しい/正しくないとすぐに判断したがる空気は、私は危うい気がするんですね。近年その空気がとても強くなってきたと感じています。 飯間 的を「射る」と「得る」はどちらが正しいのか、というような話ですね。ある人にとっては一方が正しいかもしれないけれど、別の人にとってはまた別の正解がある。古い用法を確認すると、どっちもどっちだということはよくあります。 牟田 「煮詰まる」という言葉も。 飯間 本来の意味を言うなら、鍋が煮えて水分がなくなること以外にないですね。「議論が煮詰まる」「頭が煮詰まる」のどちらが正しい使い方かと言われますが、どちらも派生した意味でしかない。「『三国(サンコク)』(『三省堂国語辞典』の略称)では4つの意味を載せていますが、本当はこれでは収まりません。「沈黙が煮詰まる」「疲れが煮詰まる」など、辞書も捉えていない使い方はいくらでもあります。バラエティーに富んだ表現の存在を知ると、あだやおろそかに「これこそが正しい」なんて言えなくなる。
新聞、雑誌、テレビ、人々の会話。 採集された現代語、145万枚分。
牟田 もっとも私も、この仕事を始めるまでは、校正って言葉をジャッジする仕事だと思っていたんですね。 出版社勤務時代、私の指導役だった先輩があるとき、私がゲラ(校正用の試し刷り)に「この言葉はこういう使い方はしないのでは」と疑問を書き込んだのに対して、「校閲部にある辞書を全部引いてこれを書いたの?」と。 大慌てで引き直したら、その著者が書いてきたのと全く同じ用法が、『福武国語辞典』にちゃんと載っていたんですよ。『岩波』や『明鏡』、『三国』『新明解』と普段引いているものから引き始めて、さらに広げていって。辞書1、2冊引いて載っていなくても、6、7冊引いたら載っているかもしれないんです。 そういう体験を一度でもすると、全部引いてからでないと何も聞けなくなりますよね。 飯間 おっしゃるように、数冊の辞書に載っていないからといって、それだけで「その用法はない」と断定はできませんね。昔から使われているのに、どの辞書も見逃している言葉や用法もありますしね。 牟田 校正の仕事をすればするほど、文章を読めば読むほど、「この言葉は間違っている」などと安易にジャッジできなくなってきました。