「人力車夫」の知られざる残酷史! いまやイケメン&1000万プレーヤー登場も、かつては日本近代化の餌食となっていた
過酷な労働と高収入の実態
インバウンド需要の高まりを受け、「観光人力車」の需要が急増している――。報道・情報番組『スーパーJチャンネル』(テレビ朝日系列)が6月23日に報じたところによると、浅草の人力車夫(引き手)の最高月収は、なんと 【画像】えっ…! これが40年前の足立区「竹ノ塚」です(計20枚) 「127万円」 にのぼるという。単純計算で年収1524万円。高給で知られる総合商社5社の平均年間給与(2024年3月期)が ・三菱商事:2090万円 ・三井物産:1899万円 ・伊藤忠:1753万円 ・住友商事:1758万円 ・丸紅:1654万円 なので、背後にぴったり付いた“スリップストリーム状態”である。 人力車の重さはふたり乗りで250kgほどあり、過酷な労働である。そのため、研修生の8割程度が途中で辞めてしまうという。それでも、頑張ればこんなに稼げる車夫は、インバウンドが生み出した“花形”のような存在だといえるかもしれない。しかも、今はイケメンぞろいで、CDデビューをした人たちもいる。 そんな車夫だが、その歴史には暗い側面もある。長い間、社会の底辺に位置づけられてきたのだ。彼らの最高月収に興奮するだけでなく、歴史を学ぶことで、より広い視野と視点を持つことができるだろう。
新交通手段の誕生背景
人力車は1870(明治3)年頃、東京で生まれたといわれている。かごに代わって全国に急速に普及し、文明開化の象徴とまで見なされるようになった。 車夫という職業は、その誕生当初から社会的評価がわかれるものだった。一方では 「新しい交通手段の担い手」 として注目されながら、他方では肉体労働を主とする下層職業として位置づけられていた。この二面性が、後の人力車夫をめぐる複雑な社会的評価の源となったのである。
失業者の受け皿
人力車夫は、どういった地位に置かれてきたのか。『東京養育院月報』をひもとくと、度々、その話題が取り上げられている。東京養育院とは、1872(明治5)年に明治新政府が困窮者救済のために設けたことに始まる社会事業施設で、生活困難になった者などを収容する救済施設の役割を果たしていた(現在は、東京都健康長寿医療センターとして板橋区に所在)。 その記事からは、当時の人力車夫の社会的立場が如実に表れている。1901(明治34)年の『東京養育院月報』第25号には、 ・深川区霊岸島(れいがんじま)小学校 ・下谷区万年小学校 に「市立貧民学校」が開校した記事が掲載されている。貧民学校は東京市が「特殊学校」として直営していた下層民に就学機会を与える学校のことだ。ここでは 「目下収容せる生徒の数は霊岸135名万年203名にして、多くは人力車夫、日雇稼、職工及び屑拾い等の子弟なり」 と記されており、この時点で既に人力車夫は貧困層の代表的な職業のひとつとして認識されていたのである。 さらに、1905年の57号では、日露戦争(1904~1905年)の終戦をきっかけとした人力車夫の増加が社会問題として取り上げられている。 「平和克複後俄然閑散を告げ、其結果職工の解雇せらるるもの続々として出で来たりしより人力車夫の数は瞬に増加し、現に浅草区の如き去月中まで車夫の営業出願数日々平均1件位なりしもの、本月に入りてよりは非常に増加して日に5人内外の出願ありと云う、戦後に於ける失業労働者の処分の問題の如きは経世家の特に注意すべき事項となす」 平均して1日1件程度だった営業出願数が5件程度となっている。この記述から、人力車夫が失業者の受け皿となっていたことがわかる。