「人力車夫」の知られざる残酷史! いまやイケメン&1000万プレーヤー登場も、かつては日本近代化の餌食となっていた
職業評価の時代変化
現代でも、タクシードライバーに対して侮辱的な目を向ける人は絶えない。その原点は人力車夫に対するそれだったようだ。筆者は当媒体に以前、「「運転しかできないくせに」 タクシードライバーを平気で“職業差別”する人たちに欠けた現状認識力、彼らはエッセンシャルワーカーである」(2024年4月13日配信)という記事を書き 「雲助(くもすけ)」 というタクシードライバーへの蔑称について論じた。 さて、人力車夫に対する見方が変わったのは、戦後になってからだった。人力車は戦後もしばらくは存続したが、自動車の普及には逆らえず、やがて姿を消した。 現在の人力車は、1970年代に観光用に復活した人力車の流れをくむものである。これに関する資料は多くないが、岐阜県の観光地・飛騨高山で人力車業を営む「ごくらく舎」は、1970年から走っている観光人力車の元祖であると主張している。それが全国に広まった経緯は不明だが、1999(平成11)年に浅草で観光人力車が人気を集めているという新聞記事が掲載されている。 「来月にはここに京都の人力車会社が進出してくるという。現在、雷門の前では3つの人力車会社が営業中だが、京都軍の殴り込みで“浅草人力車戦争”がぼっ発するかもしれない」(『スポーツニッポン』1999年2月14日付) 復活した観光人力車は、単なる移動手段ではなく、観光ガイドの役割も担うなど、かつての人力車とは大きく異なる。インバウンドの増加にともない、需要も増加している。現代の車夫には体力だけでなく、外国語でのコミュニケーション能力も求められ、その役割は大きく変化している。 このように、社会が職業に与える評価は時代とともに大きく変化することがわかる。人力車夫の評価が「最下層」から「観光の星」へと変化した過程は、日本社会における価値観の変化と進化を表している。
一色祐三(タクシーライター)