「避難所使っていい?」オンライン通訳の年末年始 被災地に安心感を 外国人と日本を橋渡し
「『給水所』も何か分からない」
2011年3月11日。宮城教育大学に留学中だった高さんは、仙台市の寮で強い揺れを感じました。「今日、死ぬんだ」という思いがよぎったといいます。 避難しようとしましたが、寮の防火扉に閉じ込められてしまいました。「誰かいますか?」と外から声をかけてくれた寮長が一緒に扉をこじ開けてくれて、逃げられました。「私は日本人に助けられてラッキーでした」 震災直後は停電のため、情報源になったのはラジオでした。しかし、漢字圏出身の高さんにとって、字幕を頼りに理解できるテレビと違い、ラジオの音声だけの日本語を聞き取ることは困難でした。 「『給水所』も何か分からない。『水をもらえるところ』と言われれば分かったのですが」 隣の人の行動を見て状況を判断するしかないことが、恐怖だったと言います。 同じ思いをする外国人の力になりたいと、被災した当日に仙台市国際交流協会に設置された無料の多言語災害支援センターで、情報を収集して翻訳するボランティアをしました。地元のFMラジオに「外国語でも放送させてほしい」と掛け合い、原稿をその場で翻訳して放送したこともあったそうです。「震災の時はとにかく必死でした」 そんな被災地での経験を振り返り、高さんは「恥ずかしながら、私も含めて多くの外国人は、『外国人なので嫌われているかもしれない』と感じながら、勇気を出して話しかける、という場面が多々あります」と話します。 もし周りに困った様子の外国人がいたら、「大丈夫ですか?」と声をかけてみてほしいと話していました。
「母国語で話せるだけで」
高さんは、その後、避難バスで上京し内定式に参加した現在の会社で、医療通訳などを勉強してオペレーターとして活躍した後、責任者として現場を守っています。 災害の時には、泣きながら家族の安否確認をしてきた問い合わせに、残念な結果を伝えなければならないことも、医療現場では家族に「これ以上の延命は難しい」と伝えなければいけないこともあります。 高さんは、通訳するオペレーターたちは「中立の立場」を保ち、情報を「足さず、引かず、変えず」に伝えることが大前提だと指摘します。 無力感にさいなまれる時もあるそうですが、高さんは「母国語で話せるだけで、利用者に安心感を与えることはできている」と励ましているそうです。 ◇ そば屋、神社、清掃工場、銭湯、介護現場……多くの人がお休みをとる年末年始も、変わらず働く人たちがいます。どんな思いで働き、どんなストーリーがあるのでしょうか。