「脳性まひで重度障害」東京パラリンピックの障害者リポーター千葉絵里菜(29)「私がまさか結婚ができるとは」
幼いころの車椅子は手動で人に押してもらわないと動けず、小学校へは友達と一緒に通学していたのですが、家族やボランティアさんが必ず一緒でした。でも、小学校4年生のときに電動車椅子に変わり、自分で移動できるようになったんです。家族も誰も同行せず、自分の意思で移動しながら友達と登校できるのはこんなにも素晴らしいことなんだ、と世界が広がったことを覚えています。 ── 通常学級に通われるなか、手動の車椅子時代は、学校でもずっとお母さまが付き添っていらっしゃったのでしょうか。
千葉さん:そうですね。母は授業中もずっと隣にいて、あれこれお世話してくれていたので、自分の時間がなく、私が小学2年生のころに、ストレスからか顔面麻痺になってしまいました。小学3年生になってからは帯広市が介助員を付けてくれるようになり、板書もしてくれたので、母の付き添いが必要なくなりました。母と1日中ずっと一緒だったころは、母が学校のことをすべてわかっているから、帰宅して「今日こうだったよ」という会話もないし、「いってらっしゃい」も言われたことがなかったんです。でも、介助員さんがつくようになってからは、「いってらっしゃい」と送り出され、帰宅後に学校の話をできるのが嬉しかったです。
■介助員さんや先生との出会いで文字を書く楽しさを知った ── 板書のサポートは、手が不自由で文字を書くのが難しかったためですか? 千葉さん:そうです。でも、小学6年生のときに出会った介助員さんが「卒業文集は自分の字で書いてみない?」と言ってくれたんです。大きな紙に大きな字で書いて、それを縮小して文集に載せてくれました。そこで初めて文字を書く楽しさに目覚めました。それまでも文字を書いていなかったわけではないですが、そこまで自分の手が動くとは信じてなかった部分があったんです。
自分で文字を一生懸命書くようになったのは、中学1年生の担任の先生の影響も大きいです。中学でも通常学級に通っていたのですが、「普通の高校に入りたかったら自分で文字を書かないとダメだよ」と厳しく言われました。いま思えば、ほかの生徒と同等に扱おうとしてくださったんだと思います。そこでハッとして、「あいうえお」の表からもう一度やり直しました。書き終わるまでに時間はかかりますが、中学校を卒業するまでに漢字もひと通り書けるようになりました。そのふたりと出会わなければ、いまの自分はなかったと思います。