イエスの隠し子かヒンドゥー教の女神か、謎多きロマの守護聖人「サラ・ラ・カリ」とは
1000年におよぶ難民
ロマの起源の物語については、サラのそれと同様さまざまな説があるが、彼らがインドから来たという点で学者の意見は一致している。ロマの言語であるロマニ語には、サンスクリット語(インドの古代語)と多くのつながりがある。ロマの人々の遺伝子プロファイルは、インド北西部や現在のパキスタンに暮らす民族グループ、とりわけパンジャブ、メガワル、グジャラート、ビール、ジャイナ、ゴンド、カリア、サトナミの人々とよく似ている。 彼らはまた、バイラブ音階、「パンチャーヤト」と呼ばれる司法制度など、多くの文化規範を共有している。神聖な女神の像を水に沈めるという行為もそのひとつだ。 11世紀にオスマン帝国が侵攻を始めた際にインドから逃れてきたと考えられているロマは、その後数世紀の間に中東、そしてヨーロッパへと広がっていった。彼らは部外者、異端者、定住地をもたない泥棒というレッテルを貼られ、暴力の標的にされた。 ロマの奴隷化は、ヨーロッパのほか、多くの植民地でも広く行われた。そして差別的な政策の問題は、今もヨーロッパ各地に残っている。 多様なロマの人々を団結させた悲劇に、ロマニ語で「ポライモス(大いなる貪食)」と呼ばれる出来事がある。ナチ党が占領下のヨーロッパでロマの半数以上を殺害した「ホロコースト」だ。 現在、ロマは世界中に離散している。『We Are the Romani People(われらロマの民)』の著者であるイアン・ハンコック教授は、数百万人のロマの3人に1人がヨーロッパの外で暮らしていると推測している。その中には、ソ連と東欧で共産主義政権が崩壊した後に北米、南米、オーストラリアに移住した人々も含まれる。米国で暮らすロマは100万人前後にのぼる。
抑圧された者たちの希望のシンボル
サラ・ラ・カリへの信仰には、古い要素と新しい要素が共存している。サラの像は海の水に浸されるが、これはインドで毎年、ヒンドゥー教の女神ドゥルガーの像が川の水に浸されるのとよく似ている。 一方で、サラはキリスト教の聖女のような見た目をしており、ポップアートの題材にも多く取り上げられている。オレシュキェビッチ・ペラルバ氏によると、彼女を母親らしい女性的な姿に描いた図像は世界中に見られるという。まるで子宮のような地下聖堂に収められたサラの像は、ほかの「黒い聖母」像や、ラテンアメリカ、カリブ海、アフリカ、東欧で人々の信仰を集める、濃い肌色をした女性的な神々と共通する特徴をもっている。 カトリック教会から正式な聖人として認められておらず、故郷を追われた人々からの信仰を集める聖サラには、物理的な崇拝の場は存在しない。フランスの教会では、その人気ゆえに存在を黙認されている状態だ。それでも、ヨーロッパ・ロマ芸術文化研究所(ERIAC)の副所長アンナ・ミルガ・クルシェルニツカ氏によると、サラはロマの象徴であり、伝統的なカトリック崇拝を超えた崇敬を集めているという。 「サラは力強い女性です。女性性と豊穣の象徴であり、抑圧され、社会の隅に追いやられた人々に手を差し伸べる守護者です」とミルガ・クルシェルニツカ氏は言う。「彼女はロマの女性の原型なのです」 ロマ運動とフェミニズムにおけるサラ・ラ・カリの象徴性は、芸術作品に見て取れる。ルーマニア、ブカレストに拠点を置くロマのフェミニスト劇団「ジウブリペン・シアター・カンパニー」や、オーストリアのウィーンで上演された演劇「ビビ・サラ・カリ」は、どちらもサラに着想を得ている。フィンランド系ロマ人アーティスト、キバ・ルンベルグ氏の最も有名な作品のひとつに「黒いサーラ(Black Saara)」があるが、この絵の中でサラは、両腕に地球を抱く現代のロマ人女性として描かれている。 「われわれはロマ文化が発見され、人々の目に触れ、そして何よりも尊重されることを望んでいます」と、ミルガ・クルシェルニツカ氏は言う。