大手出版社と直接取引できるようになるのは”来世紀中”は無理!?[第1部 - 第8話]
こういった経緯で僕は1992年8月、日広(現GMO NIKKO株式会社)を25歳で創業しました。
飛ぶように売れた成年向けの雑誌の広告販売
加藤:結論から言うと、日広を創業してめちゃ楽しかったです。一番は、ツーショットダイヤル業界の最大手2社から声をかけられたこともあって、予算が青天井だったこと。成年誌やレディースコミック誌におけるコール促進など、「反響が数えられる」広告枠を仕入れるのが仕事でした。ひたすら諸先輩の「まわし」広告代理店や、雑誌の版元(出版社)を回る、電話する、価格交渉する毎日でした。 佐藤:「まわし」とは広告業界の専門用語で、テレビや雑誌など、特定の広告枠を買い付ける口座を持っている広告代理店が、口座を持てない広告代理店などに広告枠を仲介することです。第7話でDDB、BBDOなど外資系広告代理店が、僕のいた旭通信社に広告枠の買い付けを依頼していましたが、この場合は旭通信社が「まわし」広告代理店の役割を担っている形になります。 加藤:最初の1カ月にして、30ページくらい売れたんです。広告の掲載料は1ページ10万円、15万円といった価格帯で、カラーでも40万円ほどでした。翌々年の94年末には、月300ページは取り扱っていました。平均すると毎日10ページは広告を入稿していた計算で、日々大量の成年誌が広告掲載誌で届いていました。社員は僕を入れて総勢3名。93年夏に借りた南青山の事務所は、骨董通りの突き当りの雑居ビルの4階。広告枠を仕入れさえすれば、飛ぶように売れていく日々でした。
大手出版社と直接取引できるのは“来世紀中”は無理!?
加藤:その中でも広告主に人気があって、かつページあたりの料金単価が高かったのは、コンビニで売っているグラビア誌や競馬パチンコの情報誌でしたね。『スコラ』『月刊プレイボーイ』『デラべっぴん』『SPA!』などは発行部数も多くて人気でした。 ところがこうした人気雑誌の版元は集英社や講談社などの大手だったので、アポを取って伺ってもなかなか口座契約をしてもらえません。「今度のお客さんは前金で450万円(定価の倍以上の金額)を払うから広告出稿させてください」と言っても、「そこは電通が買うということが20年前から決まっている」と断られることが何度もありました。「まわし」代理店を紹介するのでそこから広告枠を仕入れてくれ、と案内されるのも日常でした。 「まわし」代理店は神保町や小川町に集中していました。駆け出しの僕は舐められていたのか結構マージンを抜かれてしまって、業種的にもバカにされていました。どの雑誌も誌面の前の方を飾るのはほぼ大手企業という序列です。創業2、3年目の頃は、とにかく広告会社としてマトモにお付き合いしてもらうために、数多くの出版社の営業担当者や、広告枠を「まわし」てくれている広告業界の諸先輩方に夜な夜なお金を使ってましたね。 今でも忘れないのが、1995年に某大手出版社に取引口座を作ってくれと飛び込みで行った時の出来事です。「君いくつ?」と聞かれて「27です」と答えると、「会社を作ったのはいつ?」とまた聞いてくるので「3年前です」と答えました。すると、「加藤さん、悪いけど口座が作れるのは来世紀中は無理じゃないかな」と言われてしまいました。内心「ふざけんな!」って思いましたね。 雑誌もテレビも、料金表は存在しているのにその料金を払っても買えないスペースが大量にあるということが、だんだんとわかってきたんです。当時の僕にとっての広告ビジネスとは、「広告枠」の売買でした。そして、大半の優良な雑誌の人気枠は大手企業によって寡占されているという現実を突きつけられました。新参の立場では成長に限界がある、ということに気づいてしまって、27歳の僕は懊悩(おうのう)してました。