MBTIの「自己分析」に「振り回される」若者たち…アイデンティティの神話と落とし穴
「誰だって、自分の人生という物語の主人公だ。」 だから、清涼飲料水広告の少女はいつも走っているし、面接では自分の人生を物語として流暢に語らねばならないし、インスタの投稿は「統一感」を大事にせねばならない。 【写真】気になる「アンチ」の「中の人」 けれども、本当にそうなのだろうか。 私の人生は、物語なのだろうか。物語「でしかない」のだろうか。 物語でない私の人生には、価値がないのだろうか。 現代社会を覆い尽くす、過剰な「物語」に違和感を感じるあなたへ。 美学者・難波優輝氏による【新連載】「物語批判の哲学」が幕を開ける––––。 【連載】「物語批判の哲学」第1回:物語化のニーズと危うさ:後篇 >>まだお読みでない方は、第1回・中篇「流行中の「就活対策」実は「逆効果」な理由…!「就活ウケ」する「作り話」の気持ち悪さ」もぜひお読みください。
自分の「気持ち」が「商品」になる時代
第1回・中篇では、物語がもたらす第一の問題として、粗雑な「物語化」が、自分や他人を理解するのに役立つどころか、むしろ「誤解」につながりかねないことをお伝えした。ここからは、物語がもたらす問題をさらに詳しく見ていこう。 第二に、物語によって、画面の向こうの誰かと情動をリンクさせたい、という願いは、その人がもともと持っていた情動が、誰かの思惑通りに上書きされてしまうことにつながったり、可能だった別の仕方での情動理解の可能性を狭めてしまう。誰かのデザインした情動に、自分の情動がチューニングし始めてしまう。 情動の上書きの代表的な事例は、SNS、たとえばX上の情動的な投稿である。SNSの投稿に記されている物語をちらりとみるだけで、私たちはすぐさま情動に飲み込まれる。 たとえば、あるカテゴリに属する集団が別の集団を虐殺している、とのポストを見た瞬間に、そのポストが敵だとみなす対象を私たちも敵だと思わされ、瞬時に怒りの情動に支配される。私たちは、スクロールしているだけで、複数の運動や敵対的な抗争に動員されてしまう。そのときの怒りは、本当に自分の怒りなのか、それとも作り出された怒りなのか、その瞬間には判別し難いものだ。 ポストをする側ももちろん、こうした事情は分かっている。 美学者のジェニファー・ロビンソンは、栄誉心に駆られて主君を殺害し、その罪を贖うことになる『マクベス』のような悲劇を、それでも私たちが逃げ出さずに鑑賞できるのは、読者の鑑賞中に溢れ出る情動や否定的な情動をコントロールする、文学の形式的装置の働きによるものだ、と指摘する(Robinson 2005)。つまり、文学が持つ形式的装置とは、私たちを激情に巻き込みつつも、幾分かそれを冷静に味わい、うまく付き合えるようにガイドしてくれるような、情熱と冷静のあいだのデヴァイスなのである(この仕組みについてはこれからの連載で分析してきたい)。 これとは真逆なものが、私たちが日々遭遇する破壊的な文学的装置であるといえる。これらは、私たちの情動をコントロールしようとし、情動を喚起し、そして、私たちが手に負えないようなところまで激情を掻き立てようとする。 たとえば、戦争の悲惨さについてのポストは、その爆弾を落とした人々への憎悪を駆り立てることができる。暴動についてのポストは、それを引き起こした責任を特定のエスニシティ集団へと転嫁し、彼らへの悪意を増幅させる。 もしかしたらそれは敵を倒し正義をなさんとする投稿者の(しばしば一方的な)正義感の場合もあるだろうし、よりクールに、エンゲージメント数が収益につながるために、私たちの怒りを燃料にしているに過ぎないかもしれない。炎上もまた同様で、そこでは物語を通じて、私たちの情動が商品化されている(ウォール=ヨルゲンセン 2020)。