MBTIの「自己分析」に「振り回される」若者たち…アイデンティティの神話と落とし穴
物語的な理解・情動・自己像を批判する
以上、物語が重宝される理由と、それに対応して、物語がもたらす危うさについてスケッチしてきた。だが、このスケッチでは、そもそも物語とはどういうものなのか、情動やアイデンティティとはどういうものであるのかについては論じてこなかった。 ここから第4回までつづく連載では、物語化がもたらす見逃されてきた新たな問いをいっそう深いところまで考えていきたい。物語論はもちろん、歴史の哲学、情動の哲学、フィクションの哲学、人生の意味の哲学、スタイルやキャラクターをめぐる思考を横断しながら、物語批判の哲学に取り組む。 まず、「理解の願い」に対して、正しい過去の語りとは何なのかを考える。 誤解ではない自己の振り返りなど存在するのだろうか? それとも、過去の語りはなんでもありで、自分の好きなように語ればいいのだろうか? 歴史の哲学における物語的説明の議論を手がかりに、他人と自分を理解するとはどういうことなのかを考えていきたい。 次に、「情動のリンクの願い」に対して、情動との正しい距離感がどこにあるのか、情動の哲学を出発点に考える。 文学的な物語は情動を掻き立てるとともに、その情動に対して批評的なスタンスをとることも可能にしてくれる。それに対して、SNSやYouTubeを飛び回る人々のお手製の物語は、ひたすらに情動を掻き立てる。私たちは、物語を破壊的な武器にしないためにどのような手立てを考えることができるのだろうか。文学の哲学やフィクション論を手がかりに、物語との関係性を再構築したい。 そして、「自己像の願い」に対して、柔らかい理想をいかに描くかを考えたい。 私たちは、たしかに、自分らしい姿で生きたいと願う。自分らしくあればあるほど、たとえ他人に何を言われようとも自信をもって生きられるだろう。 しかし、むしろ、人々は、他人に何か言われないための適切な自己像をつくるために、物語を手がかりに自分を再編集しようとしているようにみえる。私たちが私たちらしい生を歩むためには、他人からの期待や世間の物語とどう付き合っていけばよいのだろうか。スタイル、ペルソナ、キャラクターの分析からあるべき自己像のデザインを考える。 理解、情動、そして自己像について、物語から考える。 それは、物語を批判することであるが、同時に、物語の危うさから物語の魅力が透かし絵のように浮かび上がることだろうと思う。 >>物語の危うさについてさらに知りたい方は、「面接にも広告にも…「人生は物語」に感じる違和感の正体!「ナラティブ」過剰の問題」もぜひお読みください。