鹿島はなぜ下克上Vを果たせたか? 背景にある18個の冠と伝統の力
浦和レッズの守護神、西川周作にコースを完璧に読まれていた。それでも、鹿島アントラーズのFW金崎夢生が迷うことなく振り抜いた右足がシュートのスピードを加速させ、西川が向かって左へダイブするコンマ数秒前にゴールネットを揺らした。 後半34分に決まった豪快なPKが、年間勝ち点3位・鹿島の究極の下克上をも決定づけた。 5万9837人の大観衆で埋まった埼玉スタジアムで、3日夜に行われたJリーグチャンピオンシップ決勝第2戦。11月29日の初戦を0‐1で落とした鹿島が2‐1で逆転勝利をもぎ取り、2試合の勝敗及び得失点差で年間勝ち点1位・浦和と並び、アウェイゴール数で上回って7年ぶり8度目の年間王者を獲得した。 「最初から左(に蹴る)と決めていましたし、しっかり仕事ができて嬉しいです」 金崎が笑顔で振り返ったPKを獲得するまでの過程を巻き戻してみると、ある事実がわかる。敵陣で相手の横パスを金崎が引っかけ、こぼれ球をMF柴崎岳がワンタッチで前方へはたく。FW土居聖真が落とし、DF山本脩斗がスルーパスを一閃。途中出場のFW鈴木優磨が最終ラインの裏へ抜け出し、ペナルティーエリア内へ侵入した直後に、追走してきた浦和のDF槙野智章が背後から倒してしまった。 一連の流れのなかに、実はキャプテンのMF小笠原満男が絡んでいない。チーム最年長の37歳は勝ち越す6分前にDF伊東幸敏との交代でベンチへ下がり、厳しい表情で戦況を見つめていた。 「交代を告げられたときに『エッ、何で』と悔しそうな顔をしたのを見ました」 ディフェンスリーダーの昌子源は同点の状況でピッチを後にした小笠原の無念そうな様子を思い出しながら、鹿島の歴史と伝統を知り尽くす大黒柱抜きで獲得した決勝点の価値をかみしめた。 「(小笠原)満男さんがおらんようになったピッチで1点取られて、ということもできないので」
鹿島が獲得した国内三大タイトルは、これで18個目となった。他の追随を許さないダントツの数字だが、最も重要視するリーグ戦王者の称号は、前人未到の3連覇を達成した2009シーズンを最後に途絶えていた。 鹿島のチーム作りは他と一線を画す。システムを原則として「4‐4‐2」で固定し、たとえば最終ラインの中心選手ならば「3番」と、攻守両面でチームの心臓を司る選手は「10番」と、幹となる選手に背番号とともに伝統を受け継がせてきた。 そして、有望な高卒ルーキーとレジェンドの域に達したベテランとを数シーズンほど重複させて、イズムを注入させることで世代交代を推し進めてきた。小笠原やGK曽ヶ端準、MF本山雅志(現ギラヴァンツ北九州)、DF中田浩二(引退)の1998年組は3シーズン目の2000シーズンから主力に定着。青写真ではそろって30歳となった2009シーズンが、バトンタッチの時期でもあった。 しかし、日本サッカー界で活発になった海外移籍が、鹿島のチーム作りをも狂わせる。DF内田篤人(シャルケ)やFW大迫勇也(ケルン)ら、次にバトンを託されるはずだった世代が20代前半で海を渡ったことで、必然的に世代交代も一時停止を余儀なくされる。 それでも、小笠原や曽ヶ端が飛び抜けた存在だったゆえに、ヤマザキナビスコカップ(現YBCルヴァンカップ)や天皇杯は手にすることができた。しかし、短期決戦のカップ戦はともかく、年間を通じて安定した力を発揮することが求められるリーグ戦では優勝戦線に絡めない。 そうした状況を受けて、1996シーズンから強化の最高責任者を務める鈴木満常務取締役強化部長は、フロントが主導する形の世代交代に着手する。その象徴が2013シーズン限りで退団したDF岩政大樹(現ファジアーノ岡山)であり、2014シーズンの途中にベガルタ仙台へ完全移籍したMF野沢拓也といった功労者たちだった。 そして、次世代の主力として白羽の矢を託されたのが2011シーズンに鹿島のユニフォームに袖を通した、1992年生まれのいわゆる「プラチナ世代」の選手たちとなる。高卒の柴崎は「10番」、昌子は「3番」、ユースから昇格した土居は小笠原がイタリアへ移籍するまでつけていた「8番」と、6シーズン目を迎えたいま、伝統の背番号とともに完全に一本立ちした。