角田裕毅と平川亮が”チャンピオンマシン”を走らせた……日本人ドライバーが”F1優勝”に近づいた1週間。しかし過去にもふたつのエピソード
■1991年、鈴木亜久里に訪れたチャンス
ひとつは1991年の鈴木亜久里である。鈴木は1990年の日本GPで、日本人初の表彰台となる3位を獲得した。実はこの前に、あるチームと契約を交わしていたのだ。それがベネトンである。 歓喜に沸いた日本GPの直前、鈴木はベネトンとの3年契約を締結した。しかし結局鈴木は、1991年もラルース/ローラのマシンを走らせた。実はラルースとも1991年の契約が結ばれており、二重契約となってしまっていたのだ。その結果、鈴木のベネトン入りは実現しなかった。 1991年のベネトンは、ネルソン・ピケとロベルト・モレノがドライブ。カナダGPでピケが優勝した。またシーズン後半には、ミハエル・シューマッハーが加入し、その後のスター街道の礎となった。
■1995年、片山右京に訪れたチャンス
一方、ベネトンからの誘いを断った人物もいる。それが片山右京だ。片山右京は1994年にティレルで大活躍。それがベネトンの目に留まり、オファーが舞い込んだ。しかしティレルもベネトンも、当時はJT(日本たばこ産業)のスポンサードを受けていたため、片山は返事を保留。ベネトン側は即決を求めていたため、この話は流れてしまった。片山は「シューマッハーと同じマシンで走って勝っても意味がないと思った」と、ベネトン入りのオファーを断った理由を説明していたこともあったが、近年のmotorsport.com日本版のインタビューでは「負け惜しみだった」と明かした。 ただ1995年のベネトンといえば、シューマッハーがチャンピオンに輝き、片山の”代わり”にチームメイトを務めたジョーニー・ハーバートも2勝……日本人がF1優勝に最も近づいたのは、この時だったかもしれない。 角田がレッドブルを、平川がマクラーレンを走らせた2024年。前述の通り、特に角田は、レッドブルの次期ドライバー候補のひとりとも言われている。最近では、今季後半に角田のチームメイトを務めたリアム・ローソンが最有力という報道が多いが……今週中にも発表されるというレッドブル/RBの2025年ドライバーラインアップに、大いに注目が集まる。
田中健一