どうすれば子がトップアスリートに育つ? 元日本代表・城彰二の答え「正解は1つじゃないけれど…」
鹿児島実業に進学した城彰二は、1年時と3年時の2度、全国高校サッカー選手権に出場。大会屈指のストライカーとして注目を集めた3年時の1993年度大会では、キャプテンとしてチームをベスト4に導いている。 そして卒業後の1994年には、Jリーグのジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド市原・千葉)に鳴り物入りで入団し、幼い頃に父と交わした「プロサッカー選手になる」という約束を見事に果たすのだ。 プロ1年目はデビュー戦から4試合連続ゴールを決めるなど、センセーショナルなパフォーマンス。ルーキーイヤーの通算12ゴールは、高卒新人としてはいまだ破られていない金字塔である。その後のクラブレベル、そして日本代表における活躍については、ここであらためて語る必要もないだろう。 ならば、華々しかった彼のプロキャリアに、両親の教育はどの程度の影響を与えたのだろうか。スパルタだった父も、さすがにプロ入り後の活躍に目を細めていたかと思いきや──。 現在2人の子どもの父である城自身の子育て論にも触れていく。 【ツーショット画像】タレントとして活躍する娘の城夢叶さんは、もう20歳!
◆中1でほったらかしはないなと思うけど……
厳しかった城の父は、今から12年前の2012年に他界した。まだ60代の若さだった。幼い頃はもちろん、プロとしてどんなに成功を収めても、父は亡くなるまで1度も息子を褒めたことがなかったという。 「プロになる夢をかなえた時も、『上には上がいる。どうせ1年か2年でクビになるから覚悟しておけよ』って言われましたからね。唯一、引退試合の時だけです。『お疲れさん、頑張ったな』って声を掛けられたのは」 長男には特に厳しく、という昔ながらの考えもあったのだろう。実際、6つ下の次男と、同じくサッカー選手になった8つ下の三男(和憲/かつてJFLのホンダロックSCに在籍)には、城が嫉妬するほど甘かったという。 それでも、この両親がいなければ、プロとしての成功もなかったと城は言う。 「何事もまずは自分で考えなさい、自分で経験しなければ何もつかめないという教育方針が、僕には合っていたんでしょうね。確かに中1でほったらかしはないなと思うし(笑)、あの頃は精神的にかなりきつかったですが、そうした辛い経験をした時に、どうすれば状況を変えられるか、自分で考えられる人間になれた。子どもではなく、1人の人間として見てくれたからこそ、早い段階でいろんな経験ができたし、それはすごく感謝しています」 栄養士の資格も持っていた母の、陰ながらのサポートにも感謝している。 「野球をやっている頃から、練習後におにぎりやバナナ、果汁100パーセントのオレンジジュースなどの補食をとるようにしてくれていましたからね。父親のいないところでは、いつも僕の活躍を喜んでくれていたし、『お父さんだって本当はうれしいのよ』ってフォローも忘れなかった。自分も親になって分かりますけど、母親は特に、中学生の子どもに1人暮らしをさせるなんて、相当に心配だったと思いますよ」