「ねぇ、ちょっと手を握って」…野村克也さんが明かしていた「悪妻・サッチー」の知られざる最期
先に逝って待ってると言ったのに
不思議なことに、去年の初め頃から夫婦で死について話すようになったんだ。「なぁ、俺より先に逝くなよ。俺が先に逝くから、ちゃんと後始末してこい。待ってるから」って。まぁ、奥さんは笑ってたけどね。 こっちは数年前に大動脈瘤で生死の境を彷徨ってるでしょう。どうにか生還したけど、後になって、医者が「野村さんは生命力が強いですね」と言うので、「どうしてですか?」と尋ねたら、「この病気は8割方亡くなるんです」だって。一度死にかけた経験があるから、自分が死ぬことについては覚悟していた面もある。 でも、まさか病気知らずの奥さんに先立たれるとは思わなかった。先に逝って待ってると言ったのに、それも夢と終わっちゃった。 あの人は苦しいことがあっても物ともしなかった。とにかく楽観的な性格で、「何とかなるわよ」が口癖だった。その最たる例は、南海ホークスの選手兼任監督を解任された時のことだね。
第一印象から圧倒されっ放し
そもそも、奥さんと出会ったのは、前妻との離婚訴訟の真っ只中で、精神的にどん底だった1970年の夏。当時の南海は、表参道から少し路地を入ったところにある神宮橋旅館を東京遠征の定宿にしていた。 で、そこから徒歩で1分ほどの場所に、皇家飯店というフカヒレそばの美味い中華料理屋があって、世話好きなママが経営していた。その日も後楽園での日本ハム戦の前にマネージャーと店を訪れたんです。そうしたら、「ママ! お腹すいた!」と言いながら、サッチーさんがひとりで入ってきた。ハワイ帰りで真っ黒に日焼けしていたね。お店のママから彼女を紹介されたのが全ての始まりだった。 正直、第一印象から圧倒されっ放しでしたよ。何しろ、もらった名刺には「代表取締役社長 伊東沙知代」と書いてある。俺は女社長なんてお目にかかったこともなかった。ちょうど須田開代子とか中山律子が活躍したボウリングブームの最中で、その頃に彼女はボウリング関連の輸入業者として世界中を飛び回っていた。やり手社長だよ。英語もペラペラだったよ。