移民キャラバンと日本文化の微妙な関係──外国人政策にどう影響するのか
求めるのは「生存」より「仕事」
小さなボートで地中海を渡ってヨーロッパに入ろうとする難民には、いかにも切羽詰まった表情がうかがえるが、こちらの移民希望者には多少余裕が感じられる。犯罪と貧困が広がるホンジュラスの実情を考えれば限りなく難民に近いというジャーナリストもいるが、キャラバンの中には、太った中年のおじさんおばさんもいれば、高い塀によじ登る力のある若者もいる。もちろん子供も多いのだが、今のところ、生命の危機と生活の悲惨さを伝える報道は少ない。 中東やアフリカ北部などイスラム圏からヨーロッパを目指す難民が、まずその「生存」を求めているのに対して、アメリカ入国を目指す人たちは「仕事」を求めているのだ。 僕がアメリカにいたとき、中南米の小さな国から来た学者が「世界の大問題は仕事の数より人の数が多いことだ」と発言したことが記憶に残った。世界の大問題といえば、戦争、飢餓、貧困などをあげるのが普通だが、彼は「仕事の不足」だという。また僕が訪れたいくつかの南米の小国も、基本的に反米意識が強く、その裏でアメリカに頼る意識が感じられたが、ホンジュラスをはじめとする中米の国々も同じような意識があるように思う。こういったことの背景には、アメリカという大国と中南米の小国との歴史的な関係が横たわっている。
「バナナ共和国」とモノカルチャー
アメリカには「バナナ共和国」という言葉があり、独特の意味をもっている。ホンジュラスはその典型なのだ。 中南米の小国では、アメリカ資本(たとえばユナイテッド・フルーツ〔現チキータ・ブランズ・インターナショナル〕)のプランテーションが巨大な力をもち、輸出用の果物(たとえばバナナ)などを生産し、人々はその下で働く。そういう国は、たいていが独裁的な政権に運営され、汚職と犯罪が蔓延し、きわめて貧困であり、アメリカ人はこれをふざけてバナナ共和国と呼ぶ。つまり「蔑称」だ。それが国際的なファッション・ブランド名にもなっているのだから、面白いというか不可解というか…。 そういった国では、産業が偏る。国際資本主義のメカニズムによる「モノカルチャー化」が起きるのだ。外国(アメリカ)のマーケットが要求する単一の産物のみを生産するようになり、国家としての総合力が保てず、一企業の経営状態によって命運が左右される脆弱な社会となる。 要するに中南米の小国家群は、アメリカの企業とマーケットに支配される傾向があり、工業資本としてのアメリカの北部、農業資本としての南部、さらにそのプランテーションとしての中南米というヒエラルキーの中にある。中南米の人々にとって、アメリカは「仕事」をくれる資本家であり、現地の工場管理者が頼りにならないので、本社に交渉するというような感覚で、国境の街ティファナに集結するのではないか。高い塀をよじ登る姿には、不況時代の労働争議で、経営側がロックアウトした工場に群がる労働者の姿が重なる。 そこに、キリスト教対イスラム教あるいはスンニ派対シーア派といった宗教的葛藤と、植民地の歴史に蹂躙された民族的葛藤を背景にした、地中海を渡る難民との違いがある。