理系志望に「きみは文系脳だ」見抜いた高校の担任 ルネサンス・斎藤敏一会長
日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2024年12月9日号より。 【写真】この記事の写真をもっと見る * * * 1979年10月、千葉市花見川区のボウリング場の跡地に、屋内コート8面を持つルネサンス・テニススクール幕張を開き、支配人になった。大日本インキ化学工業(現・DIC)の子会社にできたスポーツ事業部門の企画室長へ、出向していたときだ。 京都大学工学部の合成化学科で学び、大日本インキへ入社し、「相対性理論」で知られる物理学者アルベルト・アインシュタインらを輩出したスイス連邦工科大学チューリッヒ校の大学院へ留学もした。そんな「技術者」が、スポーツ施設の「事業家」へ転じた。 宮城県で生まれ育ち、中学校時代にラジオを組み立て、高校で小説を書く。「やりたいことを、素直にやる」で過ごした日々が、斎藤敏一さんのビジネスパーソンとしての『源流』だ。 留学先のチューリッヒで「人生は仕事のみにあらず」というスイス人たちの暮らしぶりに触発され、冬休みに訪れたイタリアで一つのことに縛られずに生きたルネサンスの巨匠たちの人生を知り、技術者の枠に閉じ籠もらない道が、胸に宿った。 帰国した日本は「モーレツ社員」が脚光を浴びていた時代。浦和市の研究所での仕事は深夜まで続き、隣接した社宅との間を往復する繰り返しを、先輩らは当然のようにこなしていた。でも、スイス人の暮らしぶりとの落差が、背中を押す。 ■仕事に関係のない落語同好会を重ね遊び亭一生で高座へ 3年後に異動した千葉県市原市の工場で、技術者が公害問題に何ができるかを考える研究会をつくった。仕事に縛られているような分野ばかりでなく、落語同好会も結成し、新進の落語家に教わった。千葉市のショッピングセンターで100円寄席を重ね、76年に師匠と欧州でも落語会を決行。自分に付けた高座名は「遊び亭一生」だった。 テニスクラブも、このころにつくった。事業家への一歩となったテニススクール幕張は、会費を第1期募集で3カ月1万5千円の前払いとした。見込んだ採算ラインは2千人、開業前に3300人が申し込んでくれた。テニスブームに加え、近隣で公団住宅やマンション、分譲地が次々に開発され、団塊世代らの家族がどんどん入居したことが追い風となる。室内楽を聴く集いも、開く。