理系志望に「きみは文系脳だ」見抜いた高校の担任 ルネサンス・斎藤敏一会長
すべて技術者の仕事をこなしながら、休日に妻や知人の力を借りて、自宅を連絡所にした。『源流』からの流れが、「やりたいことを、素直にやる」というエネルギーを生んでいた。 1944年6月、仙台市連坊小路で生まれた。父は仙台国税局に勤め、母と弟2人の5人家族。小学校5年生のときに父が県南部の大河原町へ転勤し、町立の小学校から中学校へ進む。ラジオの組み立てに必要な部品は、1人で国鉄(現・JR)の電車に乗って仙台駅へいき、駅近くの模型店で買ってきた。鉱石ラジオから始め、真空管を5本使う「5球スーパー」までつくる。アンテナを立てると、海外の放送も入った。 父が古川市(現・大崎市)へ転勤となり、市立古川中学校へ転校して県立古川高校へ入学したが、1年生の夏に仙台市へ戻ることになり、官舎のそばにあった県立仙台二高へ転入する。子どものころからいきたかった高校の一つだ。担任が国語教諭で文芸部の顧問。学級で文集をつくった際に「文芸部へ入っては」と言われ、小説を書く。 教諭は2年生になるとき岩手大学へ転勤し、学友らと何度か盛岡市の家へ遊びにいき、あるとき大学受験が話題になった。図面を描くことや化学実験が好きだったので理系の学科へ進むつもりだったら、恩師は「きみは文系脳だ。文系に適しているね」と指摘した。結局、京都大学工学部の合成化学科へ進んだが、「事業家」へ転じたとき、恩師が見抜いた目を思い出す。 ■女性と接するためにフォークダンス部へみつけた人生の伴侶 高校が男子校だったので、京大では女性と接することができるフォークダンス部へ入る。京大の女性だけでなく、附属看護学校や市立看護短大などの女性たちと踊り、出会ったのが徳島県出身で看護短大へきていた現夫人の加代さんだ。3年生で社交ダンス部へ移り、マネジャーになってダンスパーティーの企画を受け持ち、この経験がテニススクールの事業化に役立つ。 合成化学科の研究室に当時、スイス連邦工科大学チューリッヒ校で博士号を取得したスイス人のコッホ氏がいた。5歳くらい年上で、博士が研究パートナーになる学生を募った際、手を挙げた。英語は片言程度だったが、化学式はアルファベット。それをつなぐように会話した。