海軍にあこがれ、「軍国少女」だった桂由美さん 敗戦の心の傷とブライダルへの道のり #戦争の記憶
敗戦で負った心の傷
――その5カ月後の8月15日に終戦を迎えました。玉音放送はどこで聴きましたか? 「終戦の日は、千葉県内の知人宅にいました。東京大空襲以降、都内は何度も大規模空襲に遭っていたので、やむなく母と疎開していたのです。玉音放送は直接、聴いていませんが、ちょうど母たちがお昼ごはんを作っていてみんな手を止めてしまったので、『おかずが焦げてしまう』と思いました。日本の敗戦は想像すらせず、15日の早朝、阿南惟幾(これちか)陸相(当時)が割腹自殺されたと聞いて、私も一緒に死にたかったと思ったほどです」 ――終戦直後の東京を、桂さんはどう見ていたのですか? 「信じていた国の敗戦はショックでした。子どもながら、あの戦争は何だったのか――と自問自答を繰り返したものです。戦争が終わったとたんに、颯爽とした軍服姿が素敵だと憧れていた将校さんが、肩章を外したヨレヨレの汚い軍服で街を歩いているわけです。まわりだって闇市ばかりですよ。そして、アメリカの兵隊さんたちに媚を売る女性たち。それぞれに事情があったとは思いますが、『これが敗戦ってことか』と思いました。私は、そういう世界を見たくなかった。ちょうど大共立講堂が放課後あいていたので、暗くなってから帰宅すればみすぼらしい将校さんの姿も闇市も見なくてすむと思い、共立で演劇の世界に没頭するようになったんです」
鳩山一郎から贈られた言葉
戦後、演劇にのめり込んだ桂さんは共立では中学から大学まで10年間、演劇部長を務めた。ドラマが大好きで、脚本を書き、舞台演出をした。それはある意味、敗戦直後のショックからの“現実逃避”だった、と桂さんは言う。 「相当な期間、私は逃げていました。現実とは違う美しい世界、夢の世界をつくり出して、世の中の汚い部分から目を背けようとしていたんです」 共立女子大に進学すると、文学座の演劇研究所にも通った。演劇チームのリーダーは芥川龍之介の長男・芥川比呂志氏。1年が終わったときにこう言われたという。 「これからの新劇の世界に必要なのは知性だ。だから、あなたは4年間、大学でしっかり勉強しなさい。卒業してから文学座に来ても、喜んで迎えますから」 演劇の才能がないから諦めなさいということだったのか、4年間勉強して引き出しを増やしてからまた来なさいということだったのか、いまだにわからない。だが、この言葉が転機になった。 桂さんは熱心に大学に通い、個性的な教授からファッションの歴史を学ぶうちに、デザイナーになることを決めた。そして、日本にブライダルを根づかせることを目標に、1964年12月末、東京・赤坂の一ッ木通りに日本初のブライダル専門店をオープンさせた。