海軍にあこがれ、「軍国少女」だった桂由美さん 敗戦の心の傷とブライダルへの道のり #戦争の記憶
――オープンの前には欧州に留学もされています。鳩山一郎さんからの激励もあったようですね。 「大学当時、一番の夢はパリに行きたい、本物を見たい、ということでした。そのときの大学の学長は(自由民主党の初代総裁で元首相の)鳩山一郎先生の奥様の薫さんで、私が学生委員をやっていたつながりで卒業式の日に一郎先生から、こんな言葉をいただいたんです。『人間は、無限に伸びる可能性を持っている。ここまでしかダメということはないんだよ。だから、とにかく上を見なさい。上をうんと見ると伸びるんだよ』。常に上を目指すという気持ちを持ち、夢がかなったのは、母の洋裁学校の手伝いをしていた1960年。30歳のころでした」 ――どういうきっかけでしたか? 「ローマ五輪に合わせて、戦後初めてデザイナーや服飾学校の校長らファッション界の人間が15人でヨーロッパ視察団を組んだんです。その中に入れてもらいました。そして、そのままパリの洋裁学校に1年間、留学。帰国後に、それまで“花嫁修業”の場だった母の洋裁学校の特別専修科として、ウェディングドレスやイブニングドレスを教えることにしたんです」
――そこから、ブライダルファッションデザイナーの仕事につながるわけですね。 「当時、日本にウェディングドレスというものは、本当に何もなかったんです。ファッションの世界では、デザイナーの森英恵さんらが活躍してレベルも上がってきていましたが、こと結婚となると衣装は着物なんですね。私が58年に調査をしたら、100人中97人が振袖でした。ウェディングドレスを着るのは外国人と結婚する人か、一部のクリスチャン。そんな状況でしたから、誰かがやらないといけないと思って」 ――フランスのデザイナーとの出会いもありました。 「78年にフランスのデザイナー、ピエール・バルマン氏が来日した際、私のサロンに立ち寄ってこう仰ったんです。『僕は、この世でいちばん美しいのは花嫁姿だと思っている。でも、自分のオートクチュールでは年に3回くらいしか手掛ける機会はない。毎日、ウェディングドレスに携わっているあなたが羨ましい』と。このとき私は、この仕事は自分にとって天職だと感じ、それまでの迷いは無くなりました」