海軍にあこがれ、「軍国少女」だった桂由美さん 敗戦の心の傷とブライダルへの道のり #戦争の記憶
――日々の生活はどうだったんですか? 「戦時中とはいっても、うちでは食料に困ることはありませんでした。父は逓信省に勤めていて、鉄道郵便の係で東北を担当していたんです。母も仙台出身でそちらに知人が多く、皆さんに助けていただいたようです。住んでいたのも小岩ですから、そこまで空襲で身の危険を感じたことはありませんでした。夜中に空襲警報が鳴っても、眠いから自分は押し入れの中にいると言っていたくらいで。『焼夷弾を落とされたら一発じゃないの』って困らせながら、なかなか防空壕に入らない子で有名でした」 ――学校で授業は行われていましたか? 「学校は戦争末期になると、女子学生も学徒勤労動員で各地の工場に工員として派遣されていたので、授業はありませんでした。私たちは、田町(港区)にあった沖電気の工場で通信機器の組み立て作業などをしていました」
空襲後の無数の“マネキン”
――1945年3月10日未明には、一夜にして約10万人が亡くなり、100万人以上が罹災した東京大空襲がありました。 「小岩から西に6キロほど離れた平井地区から両国あたりまで焼け野原になりました。このときは小岩にも空襲警報が鳴り響き、防空壕に避難したことを覚えています。幸いにも直接の被害はありませんでしたが、当時、私は共立で級長をやっていたので同級生のことが気になって居ても立ってもいられない。それで朝7時半ごろに、『危険だから行っちゃいけない』という母親を振り切って、いつものように小岩駅から電車で田町へ向かうことにしたんです」
――大空襲の朝に向かったんですか? 「言い出したら聞かない性格だったので(笑)。駅員さんに聞くと、平井駅から錦糸町駅まで焼けてしまったけど、その先は動いてると。それで、新小岩から両国まで線路を歩くことにしたのです。でも駅には男の人ばっかりで女性なんて誰もいないわけですよ。いわんや私みたいなちっちゃい子はね。みんな、亀戸や錦糸町に親戚や職場の様子を見に行くところでした。両国駅まで行くには、途中で中川、荒川放水路があって鉄橋を渡らなければならない。危ないから、ということで2人のおじさんが一緒に行こうと声をかけてくれました」 ――それで、鉄橋を歩いて渡って両国まで向かった、と。 「そうです。2人のおじさんとは、川を越えて錦糸町まで行ったところで別れたんですが、私もそこで様子を見ようと、線路から外れて焼け野原の街を歩いてみたんです。すると残骸のなかで、地面のあちらこちらにマネキンが転がっていました。母の洋裁学校でマネキンは見慣れてましたから、大きな会社が焼けたんだなあと思って歩いていました。でも、途中で馬が無残に死んでいてハッと気がついたのです。『さっきのマネキンは、人形じゃなくて人間だったんだ』と。ゾッとしました。改めて見回すと、黒焦げになった焼死体が無数にあり、恐怖でその場にへたり込んでしまいました。夢中で錦糸町駅まで戻ると、脇にあった掘割(水路)はもう死体の山ですよ。空襲で炎に包まれて逃げ道がなくなって、みんな飛び込んだのでしょう」 ――田町の工場には無事に着けたのですか? 「結局、田町には4時間くらいかかって、お昼の少し前に着きました。先生も驚いて『あんた、どうやって来たの!? もう、給食のごはんを食べてすぐ帰りなさい』と言われて帰宅したんですが、帰り道のことはいっさい覚えていません。後日、二十数人のクラスメイトのうち5人が犠牲になったことを知りました」