伊達と上杉の宿敵「最上義光」...梟雄と語られてきた戦国大名の知られざる素顔
上杉の大軍に善戦
慶長5年7月21日、家康は江戸城を出て、いよいよ軍馬を北へ進めた。ところが間もなく、25日には小山(栃木県小山市)から踵を返して、今度は西上することになった。石田三成、大谷吉継らの謀反と挙兵を知ったからである。 義光のもとにも、家康から上杉征伐の中止が伝えられた。そのため、集まっていた奥羽の軍勢は自国へ戻ってしまった。石田らが奉行らを説得し、秀頼の承認を受けて、家康追討の許可を得た点は重要であった。家康側が、いわば「賊軍」となったからである。 上杉らは勢いづき、反家康工作を積極的に行い、義光らにも上杉方に加担するように連絡を行った。大いに困ったのは義光である。家康に味方する気持ちに変わりはなかったが、豊臣方に加担しなければ、上杉に攻め込まれる可能性が高い。 そこで、上方での家康の勝利を信じ、時間かせぎをしようとしたが、結局、上杉勢が最上領に侵攻することになった。9月8日のことである。横手城(現、秋田県横手市)に拠る小野寺義道も、上杉に呼応し、最上領に侵攻してきた。まさに、絶体絶命のピンチである。 2万以上の軍勢となる上杉勢は、直江兼続が指揮する本隊が南から狐越街道を通って侵攻し、西の庄内方面からも侵攻してきた。義光は、兵力を長谷堂城、山形城、上山城の三城に集中し、籠城作戦をとった。 直江軍は、1000名が守る長谷堂城に総攻撃をかけた。義光が山形城から派遣した援軍と、長谷堂城の城兵との連携作戦と、高揚した戦意によって、長谷堂城守備軍は善戦していた。上山城攻撃のほうは、上杉勢が敗れ、ほうほうの体で米沢に逃げ帰っていた。 しかし上杉勢との兵力差は歴然であったため、義光は伊達政宗に援軍を要請。政宗は、母である義姫への愛情と、家康への忠誠心から、援軍派遣を決めた。上杉軍は長谷堂城へさらに総攻撃をかけてきたが、伊達の援軍もあって、多勢の上杉勢に対して持ちこたえることができた。 結局、関ケ原の戦いで石田らが敗れたとの情報が入り、直江は長谷堂城から撤退を開始した。攻守ところを変え、義光の追撃戦が開始されたが、直江は自ら鉄砲隊を集中させて防衛する作戦をとり、なんとか米沢に逃げ帰った。 庄内地域は、天正16年以来、上杉方に奪取されていたこともあり、義光はその回復を目指して侵攻を命じ、翌年の4月には酒田城も奪い返した。また、小野寺方も追い返すことに成功した。こうして北の関ケ原の戦いでは、最上義光が勝利者となった。伊達政宗は上杉方の福島城を攻めたが、落城させることはできなかった。