伊達と上杉の宿敵「最上義光」...梟雄と語られてきた戦国大名の知られざる素顔
殺戮をものともしない梟雄。謀略を巡らす、陰険な「羽州の狐」。悪逆なイメージでばかり語られてきたが、それは、実像とは異なるものである。本当はどのような人物だったのか──。 ※本稿は、『歴史街道』2019年5月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。
ずる賢くて、残忍な人物!?
戦国大名・最上義光(1546~1614年)はこれまで、ともすれば等閑に付されてきた。義光の名が「よしあき」と読むこともさほど知られてはいない。 それだけならばまだしも、NHKの大河ドラマ『独眼竜政宗』では伊達政宗の敵役として描かれた影響もあって、ずる賢く、残忍な人物のように評価されてきた。 しかしながら、それは決して妥当ではない。実際の義光は、伊達政宗、上杉景勝、直江兼続ら戦国時代の他の武将たちと同様に、勇気と知恵を使って戦い抜き、山形藩初代藩主として57万石(実高100万石)の大藩を運営した名将であった。 そのうえ、文化的素養も併せ持ち、領民たちへの思いやりも深く、人間性に満ちた人物であったといえる。それではなぜ、「狡猾」「残忍」といった人物評価がなされてきたのであろうか。 従来、東北の大名論は、上杉中心史観や伊達中心史観によって描かれてきた。そのために、ライバルであった最上義光は過小に評価され、残忍な人物などと貶められてきたのである。 そもそも、中世の武将は、頑強な敵に対して謀略を使ったり、残忍な殺し方をする場合が少なくなかった。織田信長はよく知られているとおりで、伊達政宗しかり、直江兼続しかりで、確実な史料を見ても「皆殺しにするよう」命じている。その意味では、残忍でない戦国大名を探す方が困難なのだ。 つまり、平和な現在の価値観から、戦国時代の人々を評価するのは避けるべきである。ここでは、そうした観点より、近年の研究成果を生かしながら、義光の人生に光を当ててみたい。
「羽州探題」再興を目指して
最上義光は、義守を父、小野少将女(永浦尼)を母として天文15年(1546)正月1日に生まれた。妹の義姫は、後に伊達輝宗の正室となり、嫡男・政宗を産む。つまり、義光は伊達政宗の伯父にあたる。 義光の人生を語るうえで、室町時代において、出羽(現・秋田県、山形県)の統括者であった「羽州探題」の継承者として生まれたことは重要である。 義光が物心ついた頃には、「羽州探題」とは名ばかりになっており、その威令の届く範囲は、現在の山形市一帯くらいに過ぎなかったかもしれない。しかし、足利氏の一族、斯波氏という名門の、いわば武家貴族に生まれた意味は大きい。 義光が、3メートルを超えるような長い手紙を自らしたためるほどの文章力を持っていたのも、里村紹巴ら高名な連歌師と混じって京都で連歌を楽しめたのも、武家貴族に生まれた教養人であったからだ。 さらに、最上義光の「義」という字は、当時の室町幕府第13代将軍足利義輝から1字拝領したもので、最上家は将軍家直臣の立場にあった。その御礼のために、永禄6年(1563)6月14日には、義守・義光父子が京都にのぼり、将軍義輝に拝謁し、馬と太刀を献じている。 その後、永禄13年(1570)、25歳で義光は家督を相続し、最上家内の地位を確立すると、羽州探題の再興を目標に、山形県の北部、西部のみならず秋田県南部へも進出していった。 天正12年(1584)には、白鳥氏、寒河江氏を打倒し、山形のすぐ北側の天童に拠る天童氏を国分(現在の宮城県)へ追った。 天正15年(1587)には、庄内地方(山形県西部)の雄であった大宝寺氏を打倒して、庄内を手に入れることに成功し、羽州探題再興は成功したかに思えた。しかしながら、甥である伊達政宗は強大な勢力をもって陸奥国の覇権を確立しつつあり、最上領さえも虎視眈々と狙っていた。 そんな折、天正16年(1588)、元奥州探題の大崎家に内紛が勃発し、それぞれの勢力から援軍を要請された最上と伊達は、戦争状態に突入した。この争いは、妹の義姫による必死の懇望で和議に持ち込まれたが、伊達氏との争いに気を取られている間隙をついて、越後上杉配下である本庄繁長に庄内を奪われてしまう。 義光は庄内奪還を目指すが、天正18年(1590)の豊臣秀吉による天下統一を契機 に、20万石の豊臣方大名となり、ここに羽州探題再興の夢は潰えた。ところが今度は、豊臣秀吉の後継者とされた秀次に、娘の駒姫が見初められて輿入れすることとなり、義光は豊臣大名として重きをなしていくことになった。 天正19年(1591)には、豊臣義光と名乗ることを許され、通常は羽柴義光と名乗った。豊臣一門となったのである。文禄の役に際しては、結局渡海することはなかったものの、天正20年(1592)、500名の家臣とともに、朝鮮渡海の準備のために肥前名護屋城に出向いている。