伊達と上杉の宿敵「最上義光」...梟雄と語られてきた戦国大名の知られざる素顔
「羽州探題」から名藩主へ
戦いが終わって、豊臣政権内での覇権を確立した家康は、慶長6年(1601)の5月11日、参内して天皇に拝謁をした。その際、真田攻めの功労者である森忠政と、関ケ原の戦いで先陣を切った井伊直政らとともに、最上義光と織田長益を引き連れている。天皇に、天下分け目の戦いでの最大功労者たちを紹介したのであろう。 最上軍が2万を超える上杉の大軍を出羽の地に引き留めたことにより、関ケ原の戦いにおける家康方の勝利に、大いに貢献したと見なされたのである。義光は「家康に天下を獲らせた男」と呼んでも良いであろう。北の関ケ原の戦いに勝利した義光は、論功行賞によって20万石から57万石の大大名となった。 江戸幕府が成立すると、義光は初代山形藩主として、種々の政策を打ち出していった。そのうちのひとつとして、「最上家家法」という分国法の整備がある。山形藩を法によって統治しようとしたのである。 その内容は、武士たるもの文武両道を嗜むべきこと。忠孝の道を第一にすべきこと。他人の協力を得た軍功は自分一人の功としてはならない。同輩を騙して先駆けするべきではない。敵城が落ちた場合は、落人、女、童、病人はみだりに殺してはならない、といったものであった。 武道だけでなく、文化人であることも求めるあたりに、武家貴族に生まれた教養人らしさが見て取れる。 領内の整備もよくしたが、山形城は、関東以北では江戸城に次ぐ広さを有するにもかかわらず、天守閣がないという特徴がある。『羽源記』という記録によれば、重臣たちは天守閣建造を望んだが、義光は、城の普請は民を疲弊させるから、との理由で建築を認めなかったという。 一方で、山形城下はきちんとした町割りが施され、武士の住むゾーンを三の丸の内、その外側に町人、職人の住むゾーンというように整えられている。まさに、現在にも繫がる山形城下の基礎を築いたのである。 寺社の復興もはかり、古代以来の最上領内の寺院はすべて義光による援助を受けている。鎮護国家を祈る寺社の修造は、領主の義務であったからだ。これは同時に、義光が篤い信仰心を持っていたという側面を物語るものでもある。なお、国宝の羽黒山五重塔も義光によって修造されている。 さらに、最上川水運の整備にも尽力している。最上川には舟運にとっての3つの難所があったが、それを整備して京都と山形を結ぶ舟運の便をはかったのである。また、庄内においては総延長30余キロメートルという長大な灌漑設備(北館大堰という)を建設し、4200町歩という美田を生み出した。 配下の北館(北楯)利長の献策を受け、周囲の反対を押し切って建設を許可し、資金・資材を援助して成功させたのである。 慶長17年(1612)7月のことであった。庄内地方は米どころと知られるが、それも義光の北館大堰建設のおかげであることを忘れてはならない。 文化人でもあった義光の関心は、絵画や屛風などにも及んでいた。「遊行上人縁起絵」(国の重要文化財)など、文化財の制作にも一役買っている。義光は国宝「伴大納言絵詞」をも一時期保有していたと見られている。武家貴族の面目躍如たるものだ。 かつて「羽州探題」の再興を目指していた義光は、領国経営をよくし、冷静な視点と判断力を持ち合わせた、優れた「藩主」へと変身を遂げた。これまでは上杉中心史観や伊達中心史観によって、一面的な評価しかされてこなかった。 しかし、義光が遺した事績は偉大であり、名将のひとりとして再評価が進んでいくことを望みたい。天文15年正月1日に生まれた義光は、慶長19年(1614)正月18日に死去した。69歳であった。 【松尾剛次(まつお・けんじ)】 山形大学都市・地域学研究所名誉所長。昭和29年(1954)、長崎県生まれ。東京大学大学院博士課程を経て、山形大学教授。文学博士。日本中世史、日本仏教史専攻。著書に『葬式仏教の誕生』『知られざる親鸞』『家康に天下を獲らせた男 最上義光』などがある。
松尾剛次(山形大学都市・地域学研究所名誉所長)