伊達と上杉の宿敵「最上義光」...梟雄と語られてきた戦国大名の知られざる素顔
愛する娘の酷い死
豊臣一門として、盤石な地位を得たかに思えたが、文禄4年(1595)7月、最上義光の運命を変える事件が勃発した。豊臣秀次謀反事件である。 この事件は、秀吉が寵愛する淀殿に、秀頼が生まれたことがきっかけであった。秀次は秀吉の甥であったが、秀吉が跡継ぎとなる実子に恵まれなかったために、後継者となった人物であり、実子が生まれた結果、御用済みとなったのだ。 秀次は謀反の濡れ衣を着せられて、高野山で切腹した。ことはこれで済まず、秀頼の妻妾、子どもまでも三条河原で処刑されることとなった。秀次に嫁いで間もない義光の娘、わずか15歳の駒姫も殺されるという。 義光は命乞いをしたが許されず、秀次の他の妻妾らとともに、首を斬られ、三条河原に死体を捨てられるという、酷い処置が執られた。同年8月2日のことであった。 さらに、義光も謀反に加担したと疑われたが、徳川家康の口添えによって許された。義光の妻大崎殿は、娘の横死に心身消耗して、8月16日に亡くなっている。この事件以後、義光は秀吉に対して面従腹背の態度をとり、家康派の大名として活動することになった。 慶長3年(1598)8月18日に豊臣秀吉が死去すると、世は徳川家康を中心に動き始める。秀吉は晩年、家康を筆頭とする5人を五大老に任じ、自分の死後、幼い秀頼を補佐するようにと命じていた。 しかし、秀吉が没すると、家康は天下人として振る舞うようになっていき、慶長4年(1599)9月には、クーデターを行って大坂城に入った。家康は豊臣政権の実権を握ったのである。 家康は、とりわけ反家康派の大名に対して、大坂へのぼって服従を誓わせようとした。これに従わなかったのが、五大老の一人で、120万石の大大名であった上杉景勝であった。 上杉は慶長3年3月、秀吉の命により、謙信以来の故地・越後から、会津への国替えが行われていた。そのため、慶長4年頃の時点においては、領内は勿論のこと、城下整備が行き届いていなかった。それらを理由に、景勝の家臣・直江兼続は、景勝が上洛できないことを返信したのである。 慶長5年(1600)4月、世に言う「直江状」である。このために、上杉謀反のうわさが起こった。これに対し家康は激怒し、上杉征伐を決定した。他方、義光は、慶長5年4月19日に、家康が内裏へ参った際にも付き従っていることから、家康派大名であったことは明確である。 ここでとりわけ注目されるのは、南部、小野寺、秋田ら北奥羽の大名たちに対する軍事指揮権を、家康が義光に与えた点である。家康は、南部、小野寺、秋田らに対して、義光の指揮下で上杉方と戦うことを命じている。 このことは、家康がいかに義光を信頼していたかを端的に示している。そこで、義光のもとに、続々と北奥羽の軍勢が集まってきた。