【光る君へ】隆家が大活躍した「刀伊の入寇」のタイムライン 外敵襲来にどのように応戦したのか?
寛仁3年(1019)3月28日、対馬沖に突如として大船団が襲来。「刀伊の入寇」のはじまりである。刀伊軍は対馬・壱岐攻略後、さらに南下して筑前を攻撃する。これに対して、太宰権帥・藤原隆家は武者たちを率いて応戦した。ここでは北九州における戦況を追っていく。 ■藤原隆家指揮のもと有力武者が奮戦し撃退 北九州沿岸に姿を現わした賊徒の船の長さは15 から20メートル内外で、各船は櫂(かい)が30 ~40は取り付けられ、20~50 人程度が乗船していたとある。さらに弓矢や刀で武装した兵士が楯を保持して乗り込んでおり、その弓矢については「一尺余」で「射力ハ ハナハダ猛シ」とあり、日本側の楯を穿つほどの強弓だったという(『小右記』)。 刀伊軍は筑前西方の怡土郡を、次いで志摩郡・早良郡沿岸をへて、博多湾を擁する那珂郡に至った。当初、彼らは那珂郡・早良郡の北方に位置した能古島を拠点とした。博多はその南方にあり、かつて対新羅海賊の防御拠点の警固所が設置されていた。 「遠ノ朝廷(とおのみかど)」大宰府はそこからさらに距離があり、鎮西・九州の要たる大宰府攻略のためには、博多警固所の制圧が鍵となった。 賊徒の来襲に、わが国は当初から有効な迎撃態勢をはかることが出来なかった。4月7日、志摩郡では「人兵」「兵船」が不充分の状況下、同郡「住人文室忠光(ふんやのただみつ)」なる人物が防戦に努め、急派の府兵とともに「賊徒数十人」を倒し、撃退したと記録には見えている。翌8日は能古島で戦闘が展開し、大蔵種材(おおくらたねき)以下の武者たちが博多警固所に向かい、防御にあたったという。 さらに9日早朝には警固所が攻撃される。府兵の徴発が困難な状況下、平為忠(たいらのためただ)・為宗たちが帥首(すいしゅ/指揮官)として奮戦したことが見える。弓矢戦での死者は下級の歩兵が多く、指揮官の「将軍」たちの被害は少なかったという。また日本側の発した「加不良ノ声ニ恐レ引キ退ク(鏑矢の音響にたじろいだ)」とあり、「鏑矢」での威嚇が大きかったようだ。当時、大宰府にあった最高指令官たる太宰権帥(だざいのごんのそち)・藤原隆家も、また指揮に尽力したとされる。 その後大宰府軍を中心として、攻撃に転じようとしたが、充分な兵船を準備できず追撃不能だった。その後の2日間ほどは、「神明ノ所為」(神仏の加護)を思わせる大風が吹き、戦闘が中断され、この間に兵船準備が進み迎撃態勢も整い始めたという。 その結果11日未明までに、筑前早良郡から志摩郡船越津までの沿岸地域に「精兵」が派遣され始めた。そして12日に入ると、平致行・大蔵種材・藤原致孝・平為賢・為忠らが兵船数十艘で刀伊軍の追撃へと転じた。さらに翌13日には退却中の刀伊軍は肥前松浦郡に上陸するが、前肥前介源知らが「郡内の兵士」を率いて応戦、撤退させたことが見えている。 九州沿岸を去った刀伊軍は、対馬に一時に寄るが、その後再び北上、朝鮮半島南部の沿岸に上陸、多くの被害を与える。だが、高麗水軍の迎撃に遭遇。5月初旬には元山沖で壊滅状態で遁走することになる(『高麗史』)。 遁走に際し、刀伊軍は多くの日本人捕虜を海に投ずるが、彼らは高麗水軍に約300人が救助され、釜山近くの金海府に集められ、9月には日本への帰還が許された。 刀伊侵攻の件が京都に報せられたのは刀伊軍退去後の4月17日のことだった。王朝貴族側は現況を充分に把握しておらず、従来どおり神仏への祈願の手段を講ずるのみだった。4月21日には伊勢神宮以下の諸社(石清水・松尾・稲荷・春日・住吉など)に奉幣使が派遣された(『小右記』・『日本紀略』)。先例にのっとる旧態然とした方針とは別に、現場での即応力が功を奏し、危機を乗り切ることが可能となった。現場では藤原隆家配下の大宰府側の有力武者(「府ノ無やんごとなき止武者」)の活躍が大きかった。 彼らの指揮に当たったのが藤原隆家だった。隆家は中関白家に出自を有する人物で、武闘派貴族の代表だった。中央政界にあって道長とはソリが合わず、眼病の治療もあって九州に下向していた。『小右記』によれば、指揮下の武者たちに刀伊軍の追撃については「対馬・壱岐に至る海域までとして、『新羅』(高麗)との境に入ってはならない」との言明をしていた。異国との無用な軋轢を避けるとの外交判断があった。 当初、わが国では刀伊軍の正体が不明であった。寛平期の新羅海賊侵攻の記憶が残されており、寛仁期の刀伊来襲も、新羅=高麗からの攻撃と解する向きもあった。捕虜の日本への移送という高麗側の配慮についても、王朝貴族たちは疑心を有し、使者が来ても即刻贈答品を出し、送り返すようにとの指示も出していた。外交面で隔離政策を保持していたことで、日本側にとっては捕虜の件もふくめ柔軟な対応が必要だったのである。その折に高麗側の使者に相応の謝礼を施し、礼を尽くしたのが隆家だったという。 歴史人2024年2月号「藤原道長と紫式部」より
歴史人編集部