不義密通、呪詛・毒殺疑惑、不自然な死…… 三条天皇の東宮時代に起きた事件と後宮バトルの結末とは?
■高貴な姫君たちが次々入内したが…… 居貞親王(後の三条天皇)には、長かった東宮時代に4人の女性が入内している。まずはその4人がどういった出自の姫であったのかを整理しておこう。 藤原綏子(やすこ/すいし)……藤原兼家の娘。異母きょうだいに円融天皇の女御・詮子や道長がいる。 藤原娍子(すけこ/せいし)……藤原済時の娘。花山天皇に入内を請われたこともあるほどの美貌だった。 藤原原子(もとこ/げんし)……藤原道隆の娘。同母きょうだいに一条天皇の皇后・定子や伊周・隆家兄弟がいる。 藤原妍子(きよこ/けんし)……藤原道長の娘。同母きょうだいに一条天皇の中宮・彰子や頼通らがいる。 永祚元年(989)、最初に後宮に入ったのは綏子だ。居貞親王は14歳、綏子は16歳で、2人はおばと甥の関係でもあった。綏子は正式な女御宣下こそ受けなかったが、与えられた局が「麗景殿」だったので後世の人々からは「麗景殿の女御」と称されていたらしい。『栄花物語』によると、明るくて親しみやすい女性だったらしく、麗景殿には多くの殿上人が集ってウィットに富んだ会話が繰り広げられるサロンになっていったという。 ところが居貞親王自身は綏子に対して冷たく、なかなか訪れることもしなかった。追い打ちをかけるように、協力な後ろ盾だった父・兼家が入内から1年経たずして亡くなってしまった。 次に居貞親王が迎えたのが、娍子である。娍子は美貌の誉れ高く、かつて花山天皇にも入内を請われたこともあったほどだった。その際は父・済時が固辞したが、一条天皇には既に愛してやまない定子がいたこともあり、居貞親王からの求めに応じることにしたらしい。居貞親王は美しい娍子を寵愛し、正暦5年(994)敦明親王が誕生する。こうなると綏子の立場はますますなくなっていく。 さらに正暦6年(995)に入内したのが、中関白家出身の原子だった。彼女は兼家の孫でもある。実姉の定子は一条天皇の寵愛を一身にうけており、一族のさらなる繁栄を見据えた入内だった。さて、この頃を境に、居貞親王の後宮では度々事件が起きるようになる。 まずは夫からの愛情を得られなかった綏子だ。彼女はちょうど原子が入内した頃から3年のうちに、居貞親王と同じく村上天皇の皇孫にあたる源頼定との密通が発覚。宮中から退下することになった。綏子の華やかなサロンに通った殿上人らの1人に、頼定もいた可能性が高いという説もある。 『大鏡』によると、綏子と頼定の関係はその後も続き、遂に妊娠。それを聞いた居貞親王や道長は激怒した。綏子はその後出産を経て、長保5年(1003)に病に倒れ、寛弘元年(1004)に31歳でこの世を去った。誕生した子は早々に寺に入れられたと考えられており、後に比叡山延暦寺・横川の長吏となった頼賢という人物であると推定されている。 少し時を遡って綏子が宮中を出た後、原子は「淑景舎の女御」として一時居貞親王の寵愛をうけていた。ところが彼女の運命も暗転する。入内してからわずか3ヶ月後に父・道隆が薨去すると、「長徳の変」で兄の伊周・隆家が失脚。姉の定子も一時出家してしまい、実家である中関白家はまたたく間に没落していった。 そして長保4年(1002)の夏、22~23歳という若さで突然命を落とすのである。この死があまりにも不自然で、それまで病の気配すらなかった原子が、急に口や鼻から血を出してそのまま亡くなったというのである。『栄花物語』では、その直前まで娍子が重い病にかかっていたにも関わらずあっという間に快復し、代わりに元気だった原子が急死したことをうけて、人々が「娍子、もしくは彼女の女房である少納言の乳母が何事かを仕掛けた(呪詛や毒殺)のではないか」と噂したという。 さて、これで居貞親王のもとに残ったのは娍子だけとなった。娍子は父・済時を既に亡くしており、後ろ盾も弱く、居貞親王の寵愛と4男2女の子どもたちが頼りだった。しかし、この状況は道長にとってはよろしくない。そこで寛弘元年(1004)に入内となったのが道長の次女・妍子だ。居貞親王とは18歳差だった。 居貞親王が三条天皇として即位した後、娍子が皇后、妍子が中宮という「一帝二后」が出来上がる。妍子は長和2年(1013)に三条天皇の子を出産するが、女子だったために道長はひどく落胆した。その後も皇子は誕生しないまま、三条天皇は譲位しやがて崩御する。 では娍子が後宮バトルの勝者と言えるのかというとそうでもない。確かに三条天皇の愛情という面では圧倒的勝利と言えるかもしれないが、その後は子どもたちのことで思い悩む晩年をおくる。一方妍子が産んだ禎子内親王は、後にいとこでもある敦良親王(後の後朱雀天皇)に入内し、妍子はそれを見届けるのだった。果たして、どちらが幸せだったのだろうか。
歴史人編集部