アメリカの公民権運動に利用され、欧米で流布した「坂上田村麻呂=黒人説」とは【古代史ミステリー】
カナダの人類学者チェンバレンは、その論文の中で坂上田村麻呂を「黒人」として記述していた。その「坂上田村麻呂黒人説」はアメリカの公民権運動で利用される中で広まり、現代においても一部知識人に引用されることがある。信じがたい仮説であるが、しかし、古代日本のグローバルな状況、坂上田村麻呂のエキゾチックな容姿を考えると、東アジア系ではなかった可能性は捨てきれない。どういうことか、詳しく見ていこう。 ■アメリカの公民権運動に利用された「坂上田村麻呂黒人説」 「坂上田村麻呂黒人説」――途方もない空想の産物のように思えるこの仮説だが、現在においても一部の知識人に信じられているらしい。 「噂」の出どころは、イギリスに生まれ、カナダで活躍した人類学者アレクサンダー・フランシス・チェンバレン(1865―1914)の『The Contribution of the Negro to Human Civilization(人類文明への黒人の貢献)』という論文である。この中で、「現在の本州に住む日本人の先祖は列島の先住民族だったアイヌと戦いながら北上していったが、その軍隊の指導者が黒人の坂上田村麻呂だった」と述べられているのだ。 つまり、チェンバレンがなぜ坂上田村麻呂を黒人だと考えたのか、その具体的な根拠が示されているわけではない。しかし20世紀半ばのアメリカでは、アフリカ系アメリカ人による公民権運動が盛んになり、そこで坂上田村麻呂黒人説も利用されたようだ。それゆえ、その後も細く長く、今日までこの説が生き残ってしまったのであろうと考えられる。 しかし本当に「坂上田村麻呂黒人説」は、トンデモ説に過ぎないのだろうか? というのも、坂上田村麻呂が生きた奈良時代末~平安時代初期の日本は、現代人がイメージするより、はるかに国際的な状況にあった。 坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命した桓武天皇も、生母・高野新笠を通じ、百済の王族だった武寧王と血がつながっていたのは有名な事実である。それゆえ外国から日本にやってきて、その後は帰化した渡来人系の氏族出身者も優遇措置を受けることができたともいう(高橋崇『坂上田村麻呂』)。 ■「外国かぶれ」が嘆かれるほどグローバルだった古代世界 当時の日本は、定期的に中国・唐王朝に遣唐使を派遣していた。舒明天皇二年(630年)の第一回以降、日本から派遣された遣唐使の総回数は、学者によって数え方が異なるが、最大で20回。少なくとも14回程度はあったという。 ひとついえるのは、中国史上もっとも国際志向が強かったのが隋王朝と唐王朝で、シルクロードを通じ、はるか西方諸国――中東やヨーロッパ諸国とも交流していたということだ。また、皇帝の許可を受けていない唐人の私人渡航は厳禁だったが、唐の役人が皇帝の命を受け、外国に出張、滞在することは頻繁に行われていた。 外国との文化交流もかなりさかんで、『東城老父伝』という唐代の史料には「いま北方の胡人は京師に雑居し、長安の少年は心まで胡風に染まっている」とある。古(いにしえ)からの中国らしさを忘れはて、華やかな外国文化に耽溺する都会の若者たちが増えたことを嘆いた一説ではあるが、長安に住んでいたのは「北方の胡人」だけでなく、たとえば「金髪碧眼」の白人系、ペルシア系の人々の姿も普通に見られたという。 また、生まれた国や言語、そして肌、髪、瞳などの色が違う相手にも「美しい」「魅力的だ」と感じる感性が、唐王朝の中国に存在したことがうかがえる。遣唐使が中国から日本に持ち帰ったのは、文物だけでなく、こうした「美」の感覚も含まれていたのかもしれない。