アメリカの公民権運動に利用され、欧米で流布した「坂上田村麻呂=黒人説」とは【古代史ミステリー】
■坂上田村麻呂の「アジア人ばなれした容姿」 さて、宝亀9年(778年)11月には、第16回目にあたる遣唐使が日本に帰ってきた。その帰国船の中には、唐王朝時代の中国に生まれた氏名不詳の女性(人種情報なども不明)と、日本から遣唐使として中国に派遣されたが、玄宗皇帝に重用され、中国の地に骨を埋めた藤原清河という役人の間に誕生した、その名も喜娘(きじょう)という女性が乗っていた記録がある。 しかし、日本への帰路の海上において晩秋の嵐に巻き込まれ、船が大破してしまった。遭難しながらも、生き延びた30人の役人たちとともに、喜娘は肥後天草郡になんとか漂着できた。しかし、船旅に懲りてしまったらしい喜娘は中国に戻ろうとはせず、日本で生涯を過ごしたそうだ。 中国生まれの唐人の私的渡航は厳禁されていたが、その一方で、外国生まれの唐人にはこの法律は適応されないため、中国から帰国する遣唐使たちの船に紛れ込んで来日する様々な来歴の人々がいてもおかしくはなかった。 坂上田村麻呂の系図上、不詳となっている彼の生母も外国生まれ、もっというとはるか西方からやってきた女性だったのではないかと考えられる。その裏付けともなるのが、東アジア系離れした坂上田村麻呂の容姿だ。 平安時代初期の帝・嵯峨天皇の手によるとされる『田邑麻呂伝記』(『群書類従』第五輯)の記述をまとめると、「大将軍(田村麻呂)」の身長は五尺八寸(約176センチ)、胸板の厚さ一尺二寸(横幅約36センチの厚さの胸板という意味)、体重は多い時で201斤(約120キロ)もあったという。 しかし、少ない時で64斤(38キロ!)だったそうで、「動静は機に合い軽重は意に任す」ともある。この体重の数字を額面通りに受け取るなら、増量期と減量期の差が激しすぎる。任務に応じてどんな姿にでも変わることができる超人的な身体能力があった、というような意味だと思われる。 また、彼の「目は蒼鷹(そうよう)の眸(ひとみ)を写し、髭(※髪という説もあり)は黄金の縷(る)を繋」いだようだった。瞳は深いブルー、髭もしくは頭髪はブロンドで、顔は赤みを帯びていたそうだが、それはおそらく血色の話で、基本的には色白だったという意味だろう。 つまり田村麻呂は、チェンバレン説にあるような黒人系というより、むしろ白人系、もしくはペルシャ系の血脈であることをうかがわせる美丈夫だったということになる(なお、田村麻呂が怒りの視線を向けただけで猛獣もたちまち倒れて死ぬほどだったが、笑えば、赤子でさえなつく優しい顔になったという)。 ■清和源氏の祖先は何者だったのか? 古代日本において征夷大将軍とは、国家の非常時にだけ任命される臨時職だったが、その後も彼は軍人として活躍した。大同4年(809年)には、平城上皇と嵯峨天皇の父子対決に乗じ、上皇の寵姫だった藤原薬子が藤原氏の権力伸長をねらった「薬子の変」平定で功を立てている。また、田村麻呂は大納言という高い官職を得た朝廷の役人でもあった。 弘仁2年(811年)、田村麻呂は54歳の若さで亡くなったのだが、彼の死を惜しんだ嵯峨天皇の命により、死後もなお国家の守護者となることを期待され、多くの武具などと共に埋葬されることになった。 田村麻呂の娘の春子は、のちに桓武天皇の妃として葛井親王を産んだ。親王は即位して清和天皇となり、彼の皇子たちの末裔たちが「清和源氏」という武士の名流を形成している。清和源氏の武士たちが活躍できたのも、その祖先の一人である坂上田村麻呂のカリスマあってのことではないか。そんな坂上田村麻呂が、古代日本人のイメージを打ち破るような、エキゾチックな容貌の人物であったというのは実に興味深いのだ。
堀江宏樹