再発見された「明智光秀寄進状」は本物か?改名の経緯からみる「明智光秀」という署名の“違和感”と“真意”
■ もしも本当に「明智」と書いていたら? ここで2つの可能性を考えてみよう。 (1)【実際に光秀が「明智」と書いた可能性】と、(2)【光秀は下の名前しか書かなかった可能性】だ。 (1)から見ていく。もし本当に光秀が「明智」と署名していたとすれば、どういう理由が考えられるだろうか? この寄進状が作られた天正5年9月、織田信長はとても深刻な状況に置かれていた。 本願寺攻めが長期化する中、雑賀衆が挙兵、しかも本願寺攻めに参戦していた松永久秀が裏切って反織田派に回ってしまった。 畿内諸国が大変な事態になっていたわけだが、北陸情勢も激変の様相を呈していた。 越後国の上杉謙信が西上作戦を開始したのである。しかも越中・能登両国を短期間で平定し、さらに加賀国の織田勢力圏へと侵攻を開始していた。 信長は重臣・柴田勝家を大将とする大軍を差し向けたが、天正5年9月23日の手取川合戦で撃退されてしまう。 しかも謙信はこれを得意げにあちこちに触れ回っていたらしい。謙信の狙いは、京都を追放された将軍・足利義昭の帰京で、これを阻害する信長を打倒する気でいた。「天下が大きく変わるかもしれない」と思う人は少なくなかっただろう。 そこで光秀の寄進状だが、これは9月27日付で、手取川合戦からたった4日後の文書である。 謙信勝利に、本願寺、一向一揆、毛利方に勢いがついていく。 こんなデリケートな時期に、光秀が信長からもらった苗字「惟任」ではなく、将軍様の足軽衆だった時代の苗字「明智」を名乗り出したら、大変なことである。 信長の耳に入ったら、「あのハゲ、まさか!」と激怒するに違いない。 そしてそれを光秀が予想した上でやっていたとすれば、とんでもない食わせものだ。 「ほら、オレここで明智を名乗ったよ~。みんなも状況をよく見ておけよ~」とチラチラ周囲を眺めて、「うわー、バスに乗り遅れたらまずいぜー、俺も俺も!」を待っていたのかもしれない。 ところが信長もうかつには口出しできない。厳しく叱って、「じゃあ今すぐ裏切りますね」と返されたら、取り返しがつかなくなるからだ。実際、松永久秀が離反したときも最初は「どうしたんですか、話を聞きますよ」と低姿勢な対応をしている。 ひょっとしたら光秀が信長の叱責を待っていて、それを口実に反逆する恐れだってあるのだから、信長としては黙ってスルーする以外に手はないのだ。