「能登地震の復興は東日本に学べ」元復興庁・岡本全勝さんの提言 町を元に戻しても人は戻らず #知り続ける
「地元の意見を聞くとみんな『戻りたい』と言う。それで希望に合わせて災害公営住宅などもつくった。しかし、実際にできたら戻ってこなかった。その理由は人口が減っている中で、ある程度の人口がある町でないと病院や商店などが再開しないからです。さらに仕事もない。一方、郡山市とか仙台市とか都市部に移った人は仕事もあるし、生活環境もいい。そうなると地元に戻ってこない人が出始める。すると、人口減少がさらに加速するので、より生活が成り立たないという循環に陥ってしまったのです」 沿岸部では、漁港がある地区ごとに10戸や20戸の住宅が高台につくられた。だが周囲には病院もなく、商店もない。バスなどの公共交通機関もほとんど来ない。住民は、市の中心部にある病院や商店や学校に車で通う。 「それだったら、市街地に住宅を移してもらい、漁師さんにはそこから漁港に通ってもらうようにすべきでした。そのほうが、住民の生活環境も良い。小規模な集落では市街地よりも高齢化、人口減少が進んでいます。復興のあり方として『これでよかったのかな』という反省があります」
復興計画の策定は住民による議論と納得が重要
集落をどう再建するかなど町の今後のあり方を決める復興計画の作成は、簡単ではない。東日本大震災のときは、約370カ所の被災集落があり、集落ごとに復興計画の議論をするのに1年から数年かかったと岡本さんは振り返る。 「『どの場所に移るか』について、市役所や専門家を交えて、住民同士で議論してもらいました。その議論に入る前に、仮設住宅暮らしが落ち着き、準備ができるまで半年から1年かかった。そして地元の人が復興の方向性を議論して決めるのに約1年。そこから設計図をつくって工事が動き出す。全部で5年くらいかかった。その際に、住民の納得と合意が重要なのです」
この住民の納得と合意があるかないかでその後の進展に大きな差が出る。岡本さんが一例に挙げたのは宮城県南部の二つの自治体だ。 「宮城県名取市閖上(ゆりあげ)地区は、漁業の街で沿岸部では最大の集落でしたが、津波で壊滅状態になりました。そこで当時の名取市長は、以前のような町に戻そうとリーダーシップを発揮して現地での復興を決めた。しかし、それに対して住民から不満が出て、紛糾しました。一方、その南に隣接する岩沼市は、市が選択肢を提示して、住民の議論を待ちました。時間がかかりましたが、内陸移転が決まってからは、事業は早く進みました。住民の多くはもう漁業をやっておらず、沿岸にとどまる理由も少ない。働く人も仙台に通えるほうがいいということになり、内陸部への集団移転を決断したのだと思います。時間をかけて議論し、みんなが納得したから後から不満が出ることもなかったのです」 これはほんの一例で、東日本大震災の被災自治体ではみな復興計画を議論し、実行してきた。あれから13年が経過し、いま「復興後」の姿として各自治体は存在している。 だからこそ、岡本さんは、能登が復興計画の策定に臨む際には、東日本大震災を教訓にしてほしいと訴える。