物語を書くのは小説家、では編集者の存在意義とは?「文芸誌の編集者」のリアルを描く漫画『書くなる我ら』【書評】
誰の心にだって、もてあましている言葉がある。もがき苦しみながらも、それを物語にするのが小説家という職業。小説家が身を削るように文章を紡ごうとするのだから、編集者だって、それと全身全霊で向き合い続けなければならない。そんな小説家たちと、それに伴走する編集者の姿を描いたコミックが『書くなる我ら』(北駒生/講談社)。静かにアツく働く者たちの群像劇に、心揺さぶられずにはいられないお仕事マンガだ。 【『書くなる我ら』北駒生インタビュー】「編集者の私が物語を左右してしまったのではないか」文芸誌編集者の漫画を描く中で見えた、彼らの謙虚さ
主人公は、文芸誌「群青」の女性編集者・天城勇芽、31歳。ある日、彼女は編集長に呼び出され、若い世代向けの新文芸誌創刊の計画があることを告げられる。雑誌を指揮する「デスク」候補に選ばれた勇芽は、作家集めに奔走。「デスク」になるため、そして、理想の新文芸誌を作るために動き始める。 たとえば、編集長から「十代の頃に夢中になった作品」を問われたことをキッカケに、勇芽は、中学生の頃に祖父母の家で出会った瞬のことを思い出す。瞬が聞かせてくれた創作のおはなしは、人も風景も全部生き物のようだった。家を継いで酪農家となった瞬に会うために岩手を訪れた勇芽は、瞬が未だに物語を紡いでいることを知る。思わず、小説家を目指してみないかと声をかけるのだが、瞬は言う。 「こっちにも仕事と生活があんだ」 「なして家業を継いだかなんも知らねえで急に『小説家になるの』ってよ」 「どったな見込みがあって言ってんだ?」 瞬の反応は至極最もだろう。そして、さらに瞬は言う。「他人と作るイミってなんだ?読んだらわかんぞ。賢治もドストエフスキーも夢野久作もひとりで月まで行っちまうんだろうなって」。それは、多くの人が編集者という職業に対して感じる疑問ではないだろうか。書くのは小説家だというのに、編集者の存在意義とは何なのか。それに対して勇芽はエピソードを交えて回答するのだが、これには思わず唸らされ、ジーンときてしまう。物語の中でなら、どこにだって行ける。それを手助けしてくれるのが編集者だが、もちろん、一人でも月まで行ける作家はいる。だけれども、そんな作家だって、編集者という存在によって軌道を変える。そして、もっともっと、遥か遠くへとたどり着くのだ。 女優、ミュージシャン、会社員、なんでも屋、前科者。瞬以外にもいろんな書き手たちと出会う勇芽。書き手から勇芽自身の人生について問われることもある。自分の生きてきた道、こびりついて消えない記憶を持ったまま、作家は描き、編集者はそれに全力で立ち向かう。そうして生まれた物語は、読み手たちの生きる目印になるのだ。 「文芸誌の編集者」はどんな仕事をしているのか。その質問に答えられる人は意外と少ないのではないだろうか。「才能を発掘する」「作家をサポートする」「アイデアを出す手伝いをする」……。そのどれもが正解だが、このマンガはそれを具体的に、ドラマチックに教えてくれる。それでいて、リアリティたっぷり。地味に見える「編集者」という仕事に、これほど、熱い思いが隠されていただなんて。 勇芽の生み出す文芸誌は、これから小説界にどんな風を巻き起こすのだろうか。物語の中やままならない現実を駆け抜ける、「書く」人と「編む」人。物語を生み出すことに人生をかける、彼らの愛おしい物語は、きっとあなたにも静かな感動を与えてくれるに違いない。 文=アサトーミナミ