沢田研二ドタキャン騒動 「アイドル資本主義」と「脚光後の人生」
沢田研二の「意地」と「真の花」
沢田研二がドタキャンの理由とした「意地」には、明らかに「甘え」がある。 ワイドショーのキャスターやコメンテーターの談話も、彼をかばう、すなわち甘えを助長させるものばかりだ。心理学者の土居健郎が指摘した「日本文化としての甘え」(参照『「甘え」の構造』弘文堂)といってよく、沢田はまさにその日本的な「甘え」に乗れるからこその大スターであった。それはひとつの資質である。同世代だけに共感するところもある。 しかしプロの芸能者と観客との関係という一般論からは、そんな甘えは許されない。周りが助言するなら厳しいものであるべきだ。それが友情というものである。 つまり沢田は、往年の大スター「ジュリー」のまま、コアなファン層とともに朽ち果てようとしているのだろう。それが彼の美学なのかもしれないが、かつての同業者たちで、プロデューサーとして、作曲家として、司会者として、俳優として、「真の花」に近づいている人たちも少なくない。 好感のもてる人だけに、ここで考え直すことを勧めたい。 必ずしも職能を転じる必要はないし、コンサートにこだわってもいい。しかし客の数にこだわるのはどうだろうか。多過ぎれば伝わらないものもあるのだ。 「真の花」は昔の栄光にすがりつくことからは生まれない。「僕にも意地がある」とともに「もう後がない」ともいった。たしかに年はとった。しかし道を拓くのに「遅い」ということはないのだ。むしろ大きなチャンスである。すがりついたままではなく、険しい道を歩きはじめてから死ぬべきだ。
脚光後の人生=真の人生
華やかなフットライトが消えたあとの人生は難しい。 アイドル文化社会においては、脚光に泡(バブル)のような富がついてまわる。脚光が消えると同時にバブルの富も弾けるのだ。寂しさに耐えるだけでなく現実の暮らしを立てなくてはならず、相当の覚悟をもって「脚光後の人生」を模索する必要がある。 それは、芸能人やスポーツマンだけでなく、一般人にもいえることではないか。 誰もが、大なり小なり脚光を浴びるときがあるものだ。優等生も、一流企業のサラリーマンも、鬼部長も、敏腕セールスマンも、熟練技術者も、カリスマ店員も、それぞれに華やかな時代を生きる。しかし時代は移り、社会は変化し、技術は革新し、自分は年をとり、後輩は迫ってくる。 「脚光後の人生」は誰にでもやってくる。 そして「その後の人生」においてこそ、人間の真価が問われるのだ。 世阿弥はそういっているように思える。 稽古が大事であるが、ワザをなさない「せぬひま」も大事だという。つまり専門の能力とともに、総合的な人間力がものをいうということではないか。 「真の人生」は、むしろ脚光のあとにくる。 もちろん脚光を浴びつづける人もいる。幸せなようだが、真の人生を生きるヒマがないという意味では、不幸であるのかもしれない。