沢田研二ドタキャン騒動 「アイドル資本主義」と「脚光後の人生」
「時分の花」と「真の花」
芸能者には、若いときだけの「時分の花」と、年を取ってからの「真の花」があると、世阿弥はいった。 もちろん才能と努力があってのことだが、男性でも女性でも若いときの芸能人には、咲いたばかりの花が匂うような新鮮な魅力がある。生物としての性的な魅力につうじるものでもあり、さほど長くは続かない。それを世阿弥は「時分の花」と呼んだ。 その花が萎んだあと、孤独と苦難の中、芸に励み、道を極める努力をして、年季の末に開くのが「真の花」である。これまでの俳優や、歌手や、演奏家や、舞踊家や、落語家や、漫才師は、そういう道を歩んで、死してのちも語られるような「名人の域」に達してきた。 しかし今のアイドルたちはどうであろう。 もともと一つの芸道の基礎を学んでいない。厳しい師匠について血の出るような稽古もしていない。場末の酒場やストリップ劇場や大道芸の路上から爪を立てて這い上がるような経験もしていない。 少し可愛く生まれついて、即席の訓練を受けて、たまたま浴びた脚光であり、それが消えたあとの寂しさを精進につなげる「すべ」を知らないのだ。 プロダクションとは名のとおり「生産機関」である。 彼らはアイドルを商品として生産し世に送り出し、代価を得て次の生産に向かう。商品は消費され用がなくなれば捨てられる。悪質な生産者も多い。ところがこの商品は心をもっている。そこに悲劇が生まれる余地がある。 そう考えれば、男性のアイドルグループを輩出する有名プロダクションは、メンバーの成長に応じて長期的に活躍させる、それなりの戦略をもっているというべきかもしれないが、そこにも色々と齟齬が生じている。
アイドル資本主義
カール・マルクスは「物としての商品」から『資本論』を展開した。資本、労働、賃金、雇用、生産形態などなど。19世紀から20世紀前半までの経済学は、物としての商品が大量生産され大量消費されることを扱っていた。 しかしテレビの時代になって、資本主義は変貌した。 少年時代、NHK以外のテレビ放送がコマーシャル収入によって運営されるということが驚きだった。それまで、映画でも演劇でも寄席でも、観客が金を払うことによって運営されていたからだ。テレビはそれをタダで提供してくれる。PRというものが大きな力をもつ時代になったことを実感させられた。 銀幕に映る「映画スター」は、美しさや演技力において並外れた魅力をもつ特別の人間であった。しかし茶の間に置かれた箱に現れる「タレント」は何となく親しみがあり、生放送でも機転を効かせる才能と庶民性が要求された。やがてそれが「アイドル」というものに変わっていった。 アイドルとは、訳せば「偶像」である。偶像とは、それ自体の価値ではなく、その周りに形成されたイメージが価値をもつ、ある意味で文化的存在を意味する。 情報化社会の文化というものだ。 映画、テレビ、インターネットと媒体が変化する過程で、「スター=星」「タレント=才能」「アイドル=偶像」と人気者が変化する。その人気者に紹介される商品の価値も、その本質的性能によってではなく人気によって評価され、人気者それ自体も商品化していく。 マンガ、アニメ、ゲーム、ゆるキャラなどの興隆も含め、現代の日本は「アイドル資本主義」「アイドル文化社会」といっていい状況だ。