沢田研二ドタキャン騒動 「アイドル資本主義」と「脚光後の人生」
歌手の沢田研二さんが、さいたまスーパーアリーナで開催予定だったコンサートを急遽中止したドタキャン騒動が話題になっています。各種報道によると、沢田さんは報道陣の取材に対し、「会場をいっぱいにしないとやらない」「あと10年はやる気持ちだけど、こんな調子ではどうなるのか心配」などと話したといいます。 沢田研二が受けた屈辱、批判以上にキツかった “絶縁メディア” での謝罪 建築家で、文化論に関する多数の著書で知られる名古屋工業大学名誉教授・若山滋氏は、それ自体の価値ではなく、その周りに形成されたイメージが価値をもつ現代の日本を「アイドル資本主義」と指摘します。そして、室町時代の能作家・世阿弥が残した言葉などをキーワードに、現代人の「その後の人生」について論じます。
脚光(フットライト)が消えたあと
「モーニング娘。」の元メンバーだった女性タレントが、酒気帯び状態で車を運転し、ひき逃げをしたとして逮捕、起訴された。 弟を交通事故で亡くしたこと、酒気帯びの常習性、また他の元アイドルのあまり褒められない素行なども報道されている。そして愛媛県のご当地アイドルが自殺に追い込まれる事件も起きた。報道によると、辞めるに辞められなかったという。そこに彼女たち、現・元アイドルたちの精神的荒廃を感じる人も多いだろう。 こうした中で飛び込んできた、往年の大スター沢田研二(ジュリー)のコンサートドタキャン騒動のニュース。同じではないが、共通するものはある。あの頃のグループ・サウンズは、男性アイドルグループの“はしり“であり、そして沢田こそは、日本がまだ成長期にあった時代のアイドル的芸能者の栄光を、今なお灯しつづける力をもつ稀有な存在でもあるからだ。 現代はアイドルが量産される時代だ。そして元アイドルも量産されるのだが、「その後の人生」は難しい。一度でも華やかなフットライトを浴びた人間はその栄光がクセになる。脚光が消えたあとの人生は、火が消えたように寂しく、その寂しさを逃れるために、何かに依存する人も少なくない。 ここでその「脚光後の人生」について考えてみたい。