愛妻・娍子に支度をさせて妍子のもとへ通っていた? 三条天皇と妍子は実際どのような関係だったのか?
NHK大河ドラマ『光る君へ』第42回「川辺の誓い」では、三条天皇(演:木村達成)と藤原道長(演:柄本佑)の覇権争いが描かれた。三条天皇は道長の娘・妍子(演:倉沢杏菜)を中宮にするが、それだけでなく娍子を皇后にすると宣言。渋る道長に「これをのまなければ妍子のもとに通わない」と脅しをかけた。さて、実際三条天皇は妍子のことを冷遇していたのだろうか? ■『栄花物語』が描く18歳差の夫婦の微妙な距離感 居貞親王(後の三条天皇)の後宮には、永祚3年(989)に藤原綏子が最初に入った。その後、正暦2年(991)に後宮入りしたのが、藤原済時の娘・娍子だった。この時居貞親王は16歳、娍子は20歳と4歳差の夫婦になった。 2人は敦明親王をはじめ子宝に恵まれたが、娍子の父・済時が亡くなったことで後見となる実家の力が弱まった。そのタイミングで入内してきたのが、道長の次女・妍子である。寛弘7年(1010)のことで、居貞親王は35歳、妍子は17歳、じつに18歳差の夫婦だった。しかも居貞親王と娍子の長男である敦明親王は妍子と同い年だった。 あくまで妍子の入内は道長の思惑によるもので、最初から居貞親王は彼女に興味を示さなかった……のかというと、そうでもないらしい。『栄花物語』では、妍子のもとに朝も夜も足しげく通う居貞親王の様子が描かれている。 とはいえ、これは妍子への純粋な愛情ゆえの行動ではなかったようで、居貞親王が興味を惹かれたのは、妍子の局に並ぶ豪華絢爛な調度品や珍しい品々だった。父・道長と母・倫子が、既に幾人もの子をもうけた愛妻がいる居貞親王のもとへ娘を入内させるにあたって、衣装や調度品にはかなり気を遣ったこと、数多くの女房を侍らせたことも綴られている。 そもそも妍子は権勢を誇る道長の次女であり、一条天皇の中宮彰子の実妹でもある。東宮の身である居貞親王にとっては、既に後ろ盾もなく政治的しがらみのない娍子よりも“気を遣わなければならない相手”だった。さらに自分は18歳も上、なんなら息子と同い年の姫を娶るとあって、憐憫の情も生まれたのか、居貞親王は妍子に対して心遣いを忘れなかったという。 とはいえ、居貞親王にとって“頼れるパートナー”だったのはやはり娍子だった。なんと、朝に夜にと新妻である妍子のもとへ通う自分の支度を娍子にさせていたという。『栄花物語』には「はかなう奉りたる御衣のにほひかをりなども、宣耀殿(娍子)より、めでたうしたてて奉らせ給ひけり」や「御装束を、明暮めでたうしたてさせ給ひ、御薫物など、常に合せつつ奉らせ給ひける」といった記述がある。 というのも、妍子や彼女に仕える女房たちがあまりにも豪華な装いで“イマドキ”な華々しさだったことから、居貞親王もその輪の中に入るにあたってはやや気後れしてしまい、自分の身だしなみもより良くしなければならないと思ったというのである。そこで、信頼できる妻・娍子に自分の身支度を任せていた。『栄花物語』は「居貞親王は娍子のことをまるで母のように思われていたようだ」と記す。 その後居貞親王は寛弘8年(1011)に三条天皇として即位し、妍子は18歳で女御となった。その翌年、寛弘9年(1012)2月に中宮になり、遅れること2ヶ月、同年4月に娍子は三条天皇の強い希望で皇后にたてられた。この「一帝二后」問題で道長と三条天皇の対立は深まったと考えられるが、だからと言ってまったく妍子のもとに通っていなかったわけではないらしい。実際、妍子が禎子内親王を出産したのは、長和2年(1013)の夏で、少なくとも2人の女御がそれぞれ中宮、皇后に冊立された後に三条天皇のお渡りがあったことになる。 三条天皇が生涯寵愛したのが娍子であったということは疑う余地もないが、妍子のこともそれなりに大事にしていたのではないだろうか。ただ、18歳という年齢差、そして三条天皇からしてみれば政治を意のままにしようとする道長の娘であるということが大きく影響したことは言うまでもない。妍子自身の浪費癖や連日宴会を楽しむ“贅沢姫”っぷりに身内も辟易していたが、その裏には妍子の寂しさが隠れていたのかもしれない。
歴史人編集部