妻が語る『はだしのゲン』作者・中沢啓治。母の死をきっかけに「子どもの時に見た被爆の惨状や実相を鮮明に覚えている今しか描く時はない」と覚悟を決めて
それから1年くらい経ち、長野さんから、長篇を描かないかというお話がありました。長野さんは、夫の心の内がわかっていたんですね。夫は、「今ならまだ、子どもの時に見た被爆の惨状や実相を鮮明に覚えている。だから、今しか描く時はない」と覚悟を決めた。描くなら徹底的に描く、とも言っていました。 「徹底的に描くって、どういうこと?」と聞いたら、原爆投下前の日常から描いて、子どもたちが読みやすいようにするんだ、と。 子ども向けに原爆がテーマの漫画を描くのって、難しいじゃないですか。ただ怖いだけなら読んでもらえないですし。子どもがワクワクしてくれる面白いストーリーにしようと、練りに練っていました。真剣に考えている時には、話しかけにくかったですね。 主人公のゲンには、自分自身の経験が投影されています。ゲンが自宅跡から父親と姉、末弟の頭骨を掘り起こして、母親に見せるシーンが出てきますが、あれも実際にあったことだと聞きました。その時、初めて母親の涙を見た、とも……。 夫は、「おふくろはな、気丈な人だったよ。おふくろが生きていたから、まともな人生を送ることができたんだ。もし死んでたら、オレも広島のどっかで野垂れ死にしていただろう」と言っていました。 漫画には、原爆によるやけどで顔にケロイドを負った勝子という女の子が登場します。夫は「女の子は本当にかわいそうだよなぁ」と言いながら描いていました。女の子なら、おしゃれもしたいはず。でも、顔にケロイドを負ったら絶望しますよね。 身内を失った勝子は、仲間同士で助け合って生きているけれど、ぎりぎりの気持ちだったに違いない。描きながら勝子の心を思って、つい「かわいそうだよなぁ」と声が出てしまう。夫は思いやりがある、優しい人なんです。 漫画に描かれているように、夫はたくさんの孤児を実際に見てきたそうです。「あの子たちは、どうやって生きていったのかなぁ」とよく言っていました。たぶん一人ひとりを、「どんなことがあっても生きていけよ」と励ましたかったんだと思います。 夫の父親が、「麦のように、踏まれても踏まれても強くなれ」とよく言っていたそうですが、全巻を通してその「麦のテーマ」が流れているのです。