妻が語る『はだしのゲン』作者・中沢啓治。母の死をきっかけに「子どもの時に見た被爆の惨状や実相を鮮明に覚えている今しか描く時はない」と覚悟を決めて
◆20ヵ国を超える言語に翻訳されて 原爆は人災です。戦争が起きなければ、原爆は使われないわけです。だから、もう絶対に戦争を起こしてはいけない。そのことを伝え続けなくては、という強い信念があったからこそ、夫は苦手な講演も引き受けたのでしょう。 『はだしのゲン』が単行本になった時、確かどこかの教職員組合から講演を頼まれて、最初は断るつもりだったんですよ。でも、短い時間でもいいからと熱心にお願いされ、引き受けたところ、やっぱり体験者の語りは心に響くと言っていただけて。「苦手なんだよなぁ~」と言いながらも、結局、30年くらい講演活動を続けました。 『はだしのゲン』を描き始めたのは34歳の時で、13年かけて描き上げました。漫画はもちろん、講演も含めて、『ゲン』はまさにライフワークでしたね。 外国語にも翻訳されましたが、最初はロシア語でした。浅妻南海江さんという方が、学生時代から学んでいたロシア語能力を生かし、何人かで力を合わせて7年かけて全10巻を翻訳してくださったのです。 浅妻さん、うれしいことをおっしゃったんですよ。「この『はだしのゲン』は、10巻まで訳さなきゃ意味がない」って。
その後、英語版、中国語版、アラビア語版など、20ヵ国を超える言語に翻訳されました。共感してくださる人や協力してくださる人が大勢いるおかげで、ここまで広まり、読み継がれてきたんだと思います。 山田典吾監督の手で、映画化もされました。映画化したいというお話があった時、夫は「父親役は三國連太郎さんがいいですね」と言ったんです。そうしたら本当に父親役は三國さん、母親役は左幸子さんに決まりましたから、びっくりしました。 監督は妻の火砂子(ひさこ)さんと独立系プロダクションで映画づくりをなさっていて、資金も自分たちで集めているので、大変だったはず。でも、役者さんをはじめ多くの方が、この作品にかかわる意義を見出してくださったのでしょう。 そういえば娘に子どもができた時、夫と娘が話し合って、名前を元(げん)にしたんですよ。私、「えっ、なんで?」と、びっくりしちゃって(笑)。 娘は父親のことが大好きで、尊敬していました。離れて暮らす父親のために、よく靴やベルトを買ってきてくれましたね。だから私、夫の靴とベルトは買ったことがないんです。(笑)