憲兵隊や落下傘部隊で重用された制式拳銃【14年式拳銃】
かつて一国の軍事力の規模を示す単位として「小銃〇万挺」という言葉が用いられたように、拳銃、小銃、機関銃といった基本的な小火器を国産で賄えるかどうかが、その国が一流国であるか否かの指標でもあった。ゆえに明治維新以降、欧米列強に「追いつけ追い越せ」を目指していた日本は、これら小火器の完全な国産化に力を注いだのだった。 日本陸軍は、南部式大型自動拳銃を制式化しなかったため、長らく1896年に登場した26年式拳銃を制式拳銃としていた。しかし世界の軍隊がオートマチックを制式拳銃としている流れのなかで、19世紀末に設計されたリヴォルバーの26年式拳銃では旧式にすぎた。 そこで、日本海軍が1924年に「陸式拳銃」として制式化した南部式大型自動拳銃(乙)を参考にして、次期の陸軍制式拳銃の開発がおこなわれた。メカニズムには同自動拳銃のものをほぼ流用し、構造面での改良や洗練化、製造の簡易化、耐久性の向上といった要件を加えて新たに設計された本銃の開発には、もちろん南部麒次郎(なんぶきじろう)が協力しているが、正式には「南部」の名称は付与されていない。しかし後年、かなりポピュラーに「南部14年式拳銃」という名称で呼ばれた。 銃の制式化にともなう弾薬の制式化は、その供給数量が大量となるため、銃そのものの生産と供給よりも大変な業務といえる。このような事情と、日本陸軍は拳銃弾の威力に大きなこだわりもなかったことから、本銃には、すでに生産がおこなわれていた8mm南部弾が用いられることになった。 こうして1925年に、陸軍は本銃を14年式拳銃として制式化した。しかし日本軍では士官は拳銃を自費で調達することになっていたので、本銃はその任務上、拳銃を必要とする下士官や兵に対し、官給品として支給された。 具体的には、憲兵、戦車兵、重機関銃手、空挺兵、車両運転兵などである。 特に中国の戦線背後やアジア各地の占領地など、日本軍の支配地域では、構造面ではまるで異なる拳銃にもかかわらず外観の類似により「和製ルガー」とも称された14年式拳銃は、「憲兵の拳銃」としての認識が高かったという。 握りやすいグリップの形状や軽い反動などから、14年式拳銃を戦場で鹵獲(ろかく)したアメリカ兵は、護身用などに使用したのち、戦場土産として母国に持ち帰ることが多かった。そのため、太平洋戦争終結後もかなり長い間、アメリカでは弾薬メーカーが8mm南部弾を生産していた。 また、日本の敗戦にともなって中国や朝鮮に残された14年式拳銃は、一時期、それらの国々の軍で使用されていた。
白石 光