じつは、はるか沖合で起こる「山体崩壊」で大災害が起こる…日本海の孤島に残る「噴火・崩壊」の現場と、「無視できないリスク」
絶海の孤島を感じさせるふもとと、絶景が広がる山頂
植生は貧弱で背丈の低い草木のみが斜面を覆っていて見通しは良い。所々、火山砕屑物により滑りやすくなっている場所を避け、ルートを適切に選択しさえすれば着実に歩を進めることができる。 このようにして懸命に登ること2時間半、ようやく島の東側をつくる江良岳の山頂に到着する。海岸から山頂までのこの往復行程を考慮すると、1日に調査できる時間と場所はとても限られたものとなる。 尾根まで上がると一面が緑の絨毯(じゅうたん)で覆われたような、なだらかな斜面が広がっている(図「渡島大島江良岳西方の鞍部から清部岳への尾根筋」)。 そして空気が澄んだ日には、はるか彼方に渡島半島、本州から奥尻島まで一望でき、まさに絶景が広がる。海岸付近とは全く異なる世界がそこには広がり、700mの高低差を苦労して登ってきたことを忘れさせてくれる。
複数の山体が秘める噴火活動の歴史
渡島大島は一つの大きな火山島だが、実際には複数の山体からなる。山頂には各山体のピークが並び、起伏に富む。東側にあるのが最高峰の江良岳で東山とも呼ばれる。島の西側は西山と呼ばれ、1741年に大崩壊を起こした山体だ。 西山の崩壊前のピークは失われ、現在は馬蹄形に崩れ残った外輪山の一部が最高地点となり、清部岳と呼ばれている。そして西山の崩壊部に成長した火砕丘が寛保岳だ。渡島大島の中で最も新しい山体である。 山頂付近には1741年噴火の噴出物が厚く堆積する。その大部分は山体崩壊前の玄武岩質マグマによる爆発的噴火(プリニー式噴火)に伴い噴出したスコリアや火山灰だ(「渡島大島の清部岳山頂付近」)。
今も島に残る1741年の噴火の痕跡
1741年8月29日以前に松前で記録された、黒色の降灰をもたらした噴煙に由来すると考えられる。現在の松前町一帯でこの時の降灰の痕跡を見つけるのは容易ではないが、噴出源付近にはこのように厚く堆積物が残されていて、山体崩壊直前の噴火活動を知るための重要な手がかりを与えてくれる。 寛保岳は美しい円錐状の火砕丘だ。おそらくストロンボリ式噴火により形成されたのだろう。ほとんど侵食を受けていないその外見から、新しい火山体であることがよくわかる。 裾野には小火口が複数存在し、そこからは何枚もの溶岩が北斜面を流下し海岸に達している。海蝕崖ではこれらの溶岩流の一枚一枚が薄く広がり、幾重にも積み重なり露出する。このような特徴は、溶岩の粘り気が非常に低く、何度も川のように斜面を流れ、海に流れ込んだことを示している。 寛保岳とそれを取り囲む地形地質は、山体崩壊後も激しい爆発や溶岩流出があり、それに伴い火山灰が松前や津軽まで飛散したことを裏付けている。1741年8月29日以降も非常に活発な噴火活動が続いていたのだ。