じつは、はるか沖合で起こる「山体崩壊」で大災害が起こる…日本海の孤島に残る「噴火・崩壊」の現場と、「無視できないリスク」
徐々に明らかにされる噴火の推移と特徴
渡島大島の島内に残された地質痕跡をもとに1741年噴火の推移が徐々に明らかにされるのと並行して、周辺海域での調査も進んでいる。山体崩壊により生じた岩屑なだれ堆積物や噴煙により運ばれ海に落下した降下物など、噴火と崩壊に起因する堆積物が海底にも見出され、その特徴がしだいに明らかになりつつある。 陸上と海底の地質の対比や噴出したマグマの特徴の解明が進むことで、1741年の噴火で何が起きたのか、今後より明確になることが期待されている。 一方で、解決が簡単ではない問題も存在する。 渡島大島の山体崩壊は、どうやらプリニー式噴火の最中に発生したらしい。このことからマグマの山体浅部への貫入が崩壊の引き金になった可能性がある。しかしマグマが火道を押し広げようとする力を山体が支え切れなくなったためか、あるいは継続する活動により山体の強度が急速に低下したためか、その原因はよくわかっていない。 *参考記事:プリニー式とともに、「火山を象徴」する噴火様式 噴火が続いている中で山体崩壊が起こるという同様の現象は、2018年にインドネシアのアナク・クラカタウ島でも発生し、この時にも津波による大きな災害が起きた。 事後の解析により崩壊に先行する長期的な山体変形が観測されていたことがわかっているが、具体的にどのような条件が揃った時に崩壊が発生するかは明らかでない。世界の類似事例のデータの蓄積と比較に加えて、山体が崩れる条件や関係する物理パラメータをモデルにもとづき探るような研究も必要とされている。 参考記事「プリニー式噴火」については…:プリニー式とともに、「火山を象徴」する噴火様式参考記事「クラカタウ島の噴火」については…:「1883年大噴火」の血脈を受け継ぐアナク・クラカタウの「驚愕の山体崩壊」
江戸時代に続いた「山体崩壊」による大災害
これらの事例は、崩壊現象の理解に対する課題だけでなく、噴火中の火山に山体崩壊のリスクが生じる場合があるという防災上にも重要な問題を投げかけている。 さらに、日本列島の海域にある活火山といえば、伊豆小笠原諸島や南西諸島の島々を真っ先に想像するかもしれないが、渡島大島のように活火山は日本海側にも存在し、1741年のような大噴火、山体崩壊、津波による災害のリスクがあることを忘れてはならないだろう。 渡島大島の山体崩壊から遡ること100年、1640年(寛永17年)には渡島半島東部に位置する北海道駒ヶ岳で山体崩壊が起こり、対岸にあたる現在の伊達市や洞爺湖町の沿岸を中心に、津波により700名以上の犠牲者が出るという災害が発生した。 山体崩壊の後には爆発的噴火が始まり、この時も噴火と津波による複合災害が引き起こされた。渡島半島は江戸時代に二度も山体崩壊による災害を経験した特異な場所といえる。 渡島大島の山体崩壊から約50年後の1792年(寛政4年)には、現在の長崎県、雲仙眉山で山体崩壊が発生し、有明海を挟む島原と肥後の両地域で津波により1万5000人以上の犠牲者が出た。「島原大変肥後迷惑」と呼ばれる大災害だ。この山体崩壊は雲仙普賢岳の火山活動と関係したもので、有史以降では国内最悪の火山災害である。 このように江戸時代の寛永、寛保、寛政に起きた三つの山体崩壊と津波は、いずれも大規模な災害を引き起こした。そして、これらの噴火の特筆すべき点は、古文書の中に多くの記録が残されたことだ。 被災地域と江戸幕府との間では、噴火や津波そのものだけでなく被害状況についてのさまざまな文書が交わされたようだ。それらの古記録は、堆積物など噴火痕跡の調査分析とは別の視点から山体崩壊に伴う現象や災害の理解を進めることに貢献している。