スタイリスト・原由美子さんとする「スタイル」の話
良い仕事は猛烈に大変
年に2回のパリコレに行くのだけが長期休暇だったという原さん。「この仕事を続けるなら、そうするしかないと思っていました」と、そのワークスタイルも徹底している。 「フリーランスでやると決心したときに、60歳で終わらずに続けられるだけ働くのだろうなと感じました。父が物書きで、いわゆる休みを取らない人だったという影響もあるかもしれません。実家が鎌倉でしたので、小さい頃の夏休みも、親戚や友人が訪れる“海の家”になっていて、お休みというより、にぎやかな季節でしたし。 あとは、仕事を始めたばかりの頃に堀内さん(*堀内誠一。『anan』の初代アートディレクター)たちと行った海外ロケは驚きの連続でした。そこで、『素晴らしい経験というのは猛烈に大変なのだ』と理解しました(苦笑)。雑誌やファッションの世界の節目節目に立ち会うことができて幸運だったと思っています」
「なんであんなに雑誌をやりたかったんだろう」
70年代の原さんは、編集者とスタイリスト、そしてライターの三役をひとりでこなしていた。業界草創期ならではのその奮闘が、著書の中でたびたび振り返られる。 「最初の仕事は、『ELLE』の仏語の記事を訳して『anan』内で紹介すること。月2回刊だったので本当に大変でしたが、すごく張り切って取り組んでいました。だから、過ってはまってしまって(笑)。なんであんなに雑誌をやりたかったのか、今思うと不思議」 そう話した後、「でも」と続ける。 「仕事を始める前から、雑誌というものがいつも好きでした。実家で、高校生くらいの時、何も知らずに『週刊平凡』のファッションページをスクラップしていたんです。それが実は堀内さんがディレクションしていたページだったと後で知りました。今は急激にデジタルの時代になり、ファッションのあり方も違うものになってきていますが、私はやはり紙の雑誌の力というものを信じていた。ある時期からの『アメリカン ヴォーグ』もすごくて。アナ・ウインターと仕事をしていたグレース・コディントンの作るページが大好きでした。いいときだったんですね。だから、はまってしまいました」 取材後も、机に出していたGINZAのバックナンバーのページを次々とめくる。差し上げますと言うと、「これにします」と2024年の映画特集号を持って帰ってくれた。やはり、雑誌がとても好きな人なのだ。 ●原由美子 はら・ゆみこ>>スタイリスト、ファッションディレクター。慶応義塾大学文学部仏文学科卒業後、1970年に『anan』創刊に参加。当時雑誌内に組み入れられていた仏『ELLE』誌のページの翻訳を担当。1972年よりスタイリストの仕事を始める。以後『婦人公論』『クロワッサン』『エル・ジャポン』『フィガロジャポン』など多くの媒体でファッションページを手がける。 Photo_Hikari Koki Text_Motoko KUROKI
GINZA