ドーハの悲劇から31年 今だから話せること、森保監督 元代表コーチ、清雲栄純さん 令和人国記
サッカー元日本代表DFで古河電工監督としてをチームを日本初のアジア王者に導いた清雲栄純さん(74)は日川高校(山梨市)では、ラグビー選手との〝二刀流〟として活躍。日本代表監督(当時)のハンス・オフト氏の下でコーチとして「ドーハの悲劇」を経験した。あれから31年。「日本のワールドカップ(W杯)優勝は現実的」。当時のメンバー、森保一氏が監督として率いる日本代表に期待を寄せる。 【写真】プロレスラーとして絶大な人気があったジャンボ鶴田さんは、清雲栄純さんの日川時代の同級生だ=平成10年1月 ■まさか日本代表コーチに 1993年10月の「ドーハの悲劇」は、私のサッカー人生の中でも、強烈、特別な経験でした。 92年、オランダ人のオフトさんを日本代表監督に呼ぶというのは聞いていたんですけど、まさか自分がコーチになるとは思っていませんでした。日本サッカー協会の強化責任者だった川淵三郎さん(後の日本サッカー協会会長)から「協会に来てもらいたい」と言われ、握手をしたのが〝運の尽き〟ですね(笑)。でも、私はヤマハ発動機(現ジュビロ磐田)、マツダ(現サンフレッチェ広島)で指導していたオフトさんのサッカーに興味を持っていました。 8月、北京でのダイナスティカップで優勝したことが、チームにとって、ものすごく自信になりましたね。決勝は大雨の中、韓国と死闘を繰り広げ、2-2からPK戦で勝ったんです。続く10月、広島でのアジアカップでも初優勝した。決勝のサウジアラビア戦では、(不調の)高木琢也が決勝ゴールを決めた。高木を使うかどうか、ものすごく迷ったんですよね。オフトさんは「ここで高木を(先発から)外してしまったら、彼のサッカー人生終わるんじゃないか」と言ったのを覚えています。 翌年からW杯予選が始まるんですが、1次は突破したものの、最終予選は厳しい戦いになるというのは分かっていました。日本はターゲットにされていましたから。あと、左サイドバックの都並(敏史)が負傷で抜けた穴が大きく、埋まらなかった。喫茶店にいたオフトさんが冗談で「この中に左サイドバックできる人いるか、聞いてみたい」と言っていたほどでした(笑)。 Jリーグがスタートし盛り上がりましたが、選手は全力でプレーし疲れ果ててました。代表にはトリートメント(体調回復)のために来ている感じもありましたね。