手塚治虫の知られざる傑作「サンダーマスク」
「銀河鉄道の夜」は大きく分けて、第1次から第4次までの改稿が残っており、第4次の原稿が現在では「最終稿」として出版されている。第3次と第4次の間では、かなり大きな変更が行われている。第3次までは「ブルカニロ博士」という人物が登場するが、第4次では完全に削除されているのだ。第3次までを推敲(すいこう)途中の未完成作品ではなく「ブルカニロ博士篇」という異稿として取り扱う向きもあり、現在ではこの「ブルカニロ博士篇」も出版されている。 特に詩は、番号を振られた断片が多数残っていて、断片が相互に内容的に関連したり推敲したりで、複雑に絡まり合っている。私は学生時代に宮澤賢治全集を読んだ際にいくつかの番号のみの無題の詩が気に入って、ノートに書き写したり、メロディーを付けてみたりした、という思い出がある。 おそらく無題の詩も、「サンダーマスク」も同じだ。「手塚治虫漫画全集」を読まなければ「サンダーマスク」には出会えなかった。「宮澤賢治全集」を読まなければ番号のみの題のない詩には出会えなかった。 後に、作曲家・武満徹(1930~96)の没後、小学館が出版した「武満徹全集」も買いそろえた。武満の映画音楽がほぼ網羅されているのに魅力を感じて、全5巻・CDが55枚組という大部を購入。1枚ずつ聞いていったのだが、ここでも手塚治虫の全集と同じ経験をした。いくら武満徹の音楽が好きでも、全部が気に入るわけではないのだ。 それでも全集を聞いたことで、私はNHKのドキュメンタリー番組「未来への遺産」(1974~75年)に彼が付けた、すばらしく美しい曲集を知ることができた。 ●「自分のための作品」に出会う道 いっとき、「タイパ」という言葉が流行したことがあった。タイムパフォーマンス、時間の効率という意味だ。映画を早送りで見る行為がクローズアップされ、「創作物を鑑賞するのにふさわしいやり方ではない」と批判を浴びた。この流れからいうと、全集を読むというのは、大変にタイパの悪い行為だ。 一人の作家を手っ取り早く知るためには、世評の高い作品を読むに限る。世評の高い作品とは、誰もが認めるその作家の傑作だからだ。そして一人の作家を知るためには、必ずしも全集を読む必要はない。なぜなら全部が傑作という作家はいないからだ。 ただし、その作家が持つ傾向とか、あるいはすべての作品全体を通じて放射される「雰囲気」とか「香気」としか形容のしようがないものは、全集を読破しないと捕捉することはできない。 そしてまた、「これは自分のために書かれた」と思えるような一冊に出会うためにも、全集を読む必要がある。世評が高いということと、自分の心に刺さるということは別であるからだ。 創作者個人の全集となると、タイパ絡みで語ることもできるが、これが創作の一ジャンル全体となると、これはもう鑑賞そのものが、個人の全人生を懸けた営為となる。ひたすらSF小説を買い集めて、ついには書庫まで建ててしまった人を知っているが、行くところまで行くと。それは単なるコレクションではなく、文化的意義が発生する。 書評家・SF研究家の星敬さん(1956~2019)の没後、膨大なライトノベルの蔵書が残された。ライトノベルのようにサブカルチャーに区分される本は後世に残りにくい。星さんの蔵書は、後輩らが悪戦苦闘して、最近やっと収まるべきところに収まるめどがついたと聞いている。