新しい戦前・新しい中世・新しい江戸 時代のポイントを鋭くついたタモリ発言 歴史は繰り返すのか
「新しい中世」という言葉
従来「新しい中世」という言葉が存在する。タモリの発言もそれを踏まえたものだろう。 これは主として国際政治学的な用語で、単純にいえば近代化以後の世界情勢が中世に似てくるということであり、少し踏み込めば、世界を構成する主体が、近代的な主権国家だけでなく、多様化し複合化するということだ。 近代国家が成立する前の中世(特にヨーロッパ)は、宗教、王家、領主、都市民、あるいは帝国など、世界を構成する主体が多様で複合的であった。そして現代は、グローバリゼーションが進み、経済的にはEUやTPP、軍事的にはNATOやQUADといったブロック化が進み、主要な企業はほとんどが多国籍化し、映画や音楽などの文化も瞬時に国際流通する時代である。「国境」よりも、経済、情報、思想、政治体制、軍事同盟など、多様で複合的な「文化境界」の重要性が増している。 またかつて、文化人類学や記号学や建築学などの分野で、ポストモダンという言葉が流行した。これは近代以後という意味であるから新しい中世とは逆であるが、硬直した近代的価値観を否定するという意味で似た様相をもっていた。逆にいえば、それほど「近代=モダン」という概念が、われわれの生活と感覚を強く規定していたし、今も規定しているのである。 「新しい戦前」という言葉にも、「新しい中世」と同様、歴史の歯車が逆行するニュアンスがある。
「新しい江戸」かもしれない
実は僕は、少し前から「新しい江戸」という言葉を考えていた。 日本は島国であり、永いあいだ国内とせいぜい東アジアのことを考えて生きてきたのであるが、明治以来一転して、日本人は常に海の外(主として西洋)を目指すようになった。優秀で意欲ある多くの若者が、狭い島国の枠組みに飽きたらず、広い海の向こうへと旅立ち、海外で学び、海外で仕事をし、海外を旅行してきた。 福沢諭吉はその旗振り役で、漱石も鴎外も海外留学後に小説家となったのだ。軍事進出もあり、経済進出もあった。トヨタも、ホンダも、ソニーも、パナソニックも、ニコンも、セイコーも、日本の工業技術は世界で評価され、日本文化そのものが評価された。 しかし最近の日本人は、パック旅行や簡易な語学留学はともかく、本格的な留学にも海外出張にも消極的だという。昔は海外を飛びまわれることが魅力だった商社員でさえ、海外赴任を嫌がるという。 たしかに、今の日本は比較的安全で、食べ物のバリエーションも豊富、公共施設が整い、シャワートイレやコンビニなど、生活の利便性がきわめて高い。また他国に比べて海外の情報や商品に対する制限が少なく、テレビでは外国の街並みや自然の景勝を映し出し、海外の映画や音楽その他の商品もすぐに手に入る。 そう考えれば今の若い人が、できることなら外国で苦労するより国内で安穏と暮らしたいと、内向的になる気持ちも理解できる。僕自身は世界に挑戦する意欲を期待したいのだが、明治以来の「外向きの力」が「内向きの力」に転換しているような気がしてならない。 それに加えて最近再び、江戸時代を評価する傾向がある。 これまでは「身分制度に縛られた閉鎖的で封建的な社会」というイメージが強かったが、鎖国とはいえ、オランダをつうじてヨーロッパの情報が入ってきていたし、士農工商という身分制度もタテマエで、実際には商人や職人など町人が豊かな文化を享受していた。浮世絵はそのヴィジュアルな証拠である。都市生活を支えるインフラとして街道、飛脚、早馬などの整備とともに、上水、下水、農業などの用水の管理が進んだエコ社会であり、武士は藩校、庶民は寺子屋で勉強して識字率は世界一であったといわれる。 またこの時代に200年以上も平和が続いたのは世界でも稀で、パックス・ロマーナ(ローマによる平和)にならって「パックス・トクガワーナ」(徳川家による平和)と呼ばれるほど、海外でも江戸社会に関心が高まっている。外国人観光客が関心を示すのも、もはや先端的な技術ではなく伝統的な技術であることが多い。 しかも現在は、地球温暖化による異常気象が激化して産業革命以来の工業文明が壁にぶつかっている。そう考えれば日本は、明治以来の海外熱、産業熱が冷めて、江戸時代に似た社会すなわち「新しい江戸」が来ると考えても不思議はないのだ。