【書評】「民主主義の危うさ」丹念に描く:軽部謙介著『人事と権力 日銀総裁ポストと中央銀行の独立』
民意背景に独裁へ
中央銀行はなぜ独立性が問われるのか-。一般論で言えば、物価の安定という中央銀行の使命を果たす上で、目先の景気を重視しがちな時の政権と判断が異なるケースがあるためとされる。有権者を意識して景気ばかり優先すると、インフレが制御できなくなる。長い時間軸で見て経済社会は大きな損失を負うという経験則が生み出したのが「独立性」という知恵だった。それは1998年施行の改正日銀法でより明確化されていた。 その独立性が無残に崩れていく過程を筆者は後段で詳細に再現する。独立性を担保する仕掛けの一つが審議委員の存在だ。審議委員6人は、総裁と2人の副総裁を含めた9人の金融政策決定会合で1人1票の投票権を持つ。本書は安倍がその審議委員をも自身の意に沿った人物にすげ替えていく経緯を描き出しているが、興味深いのはその前の局面。総裁が黒田に代わった直後の2013年4月の決定会合だ。 この時はまだ白川の反アベノミクス路線を支えてきた審議委員が半数以上を占めていた。審議委員の独立性や政策の一貫性を考えれば、総裁や副総裁が代わったからといってそれに準じる必要はない。だが、この制度上の仕掛けはあっけないほどもろかった。黒田は「マネタリーベースが年間60兆~70兆円増加するような金融市場調節を行う」という大胆な緩和策を提案し7対2で承認される。それまで白川路線を支持していた審議委員の多くが態度を変えたのだ。 なぜ彼らは腰砕けになったのか。筆者が当事者から直接引き出した言葉は衝撃だ。ある審議委員は「反対することは考えていなかった。(中略)組織人としては、やむを得ないと思った」と話し、別の審議委員は「12月の総選挙で『大胆な金融緩和』を公約にした安倍自民党が圧勝した。これは国民の意思だ。そこまでやらざるを得ないということだ」と語った。審議委員を託されるほどの金融の専門家たちが、中央銀行の独立性の意義をその程度にしか理解していなかったのだ。 これに対し筆者は「もし『選挙結果を重視する』というロジックに重きを置くならば、中央銀行の独立よりも選挙結果の方が重大ということになる。それは新日銀法が予定していたものなのだろうか」と根源的な疑義を示す。 さらに目を引くのは、政治からの「独立性」を血肉化しているはずの日銀幹部らも、総裁交代と同時に態度を変え、黒田提案に抵抗する審議委員を水面下で説得している点だ。筆者はその経緯を記しながら「多くの日銀マンにとって行内の政権交代に適応する以外、生きていく道はなかった」と冷ややかにつづっている。 新日銀法で高らかに宣言したはずの「独立性」は、なりふり構わぬ為政者の前ではかくももろいものであった。 民意は独裁を防ぐための重要な要素ではあるが、近代の歴史は、民主主義制度下にあっても民意とは隔絶しなければ危うい分野があることを示した。だが、そのことに無自覚な為政者が現れ、民意を背景に意のままの人事を行使したとき、精緻に築き上げた現代の民主主義システムは瓦解(がかい)する。そしてそれは民主主義が忌避したはずの独裁につながっていく-。民主主義にとっての「民意」はそうした危険と背中合わせであることを本書はあますところなく描き出している。(敬称略)
【Profile】
河原 仁志 1982年共同通信社入社。経済部長、編集局長などを経て2019年退社。著書に「沖縄をめぐる言葉たち」(毎日新聞出版)「沖縄50年の憂鬱」(光文社新書)など。10月に「異端~記者たちはなぜそれを書いたのか」(旬報社)を刊行。