「永遠のジャンプ小僧」笠谷幸生さんは何を思い、どう考えたか 寡黙な1972年札幌五輪金メダリストが残した言葉から
スタートから助走路を滑って踏み切り、空中に出て、着地のテレマーク姿勢を取る。それらを一連の流れとして考え、技術的に完成したという手応えを得た。札幌五輪2シーズン前の頃で、国際的には1970年世界選手権70メートル級で銀メダルに、国内的には札幌五輪テスト大会の70メートル級を含んだ71年の11戦9勝という成績に結実した。 「テレマークができるようになって、俺のジャンプが完成した。つまり逆算なのよ。いくらいい踏み切りをして空中も空気に挟まっても、成り行きで飛んでいって安全な着地はできない。テレマーク姿勢を取れるから、空中で空気に挟まれる、そしてその前のタイミングを気にしない踏み切りもできる、という考え方」 20代半ばを過ぎて、ようやくジャンプの極意をつかんだ。「遊び」を極めようともがき続けた結果だった。 「中学から競技としてジャンプをして、ずっとうろうろした。よく札幌五輪まで(競技人生が)持ったね。札幌は完成したジャンプを実践する場で、別に優勝しなきゃいけないとか、優勝しようとか、一切なかった」 (6)「ジャンプ台をやっつける」
「遊び」を極めうようと技術的に試行錯誤した笠谷さんは、技を実践するためにジャンプ台と戦うという思いを持ち続けた。だから「ジャンプ台をやっつける」という言い方をした。自分とジャンプ台との1対1の勝負である。当然その相手に過不足はあった。大倉山ジャンプ競技場は1931年に最初の台が完成して長い歴史を誇り、敵に不足のない台だった。ところが宮の森ジャンプ競技場は札幌五輪開催を機に造られた、いわば後付けの台という位置づけだった。その違いを明確に意識していた。第1回の1924年シャモニー五輪から実施されたジャンプは、最初の8大会は1種目だけで、64年インスブルック五輪で70メートル級と90メートル級の2種目になった。 「大倉山は特別なんだ、昔から。ジャンパーとしては登竜門で、一つのシンボル、何としてもやっつけたい競技場。だいたい最初に飛んだら転ぶんだ。俺が初めて飛んだのは高校1年。スタートして、いつ転んだか分からない。気がついたら寝そべってた。そんな台が札幌五輪用に改修されて新しくなる。これは飛んでみたくなるよな。宮の森はとってつけたようなもので、70メートル級は後からできた、付け足しのようなものだ。そう思うな」