「空襲」と「原発事故」 時代・土地に翻弄された90歳 ~福島県・南相馬 日高美奈子さん~
10代半ばで米軍による空襲を、80代に入り東日本大震災を経験した女性が福島県にいます。壮絶な経験を2度し、いま何を思うのでしょうか。太平洋戦争や原発事故の体験者の証言を「デジタルアーカイブ」として後世に残す活動をしている立教大学大学院の宮本聖二教授に取材してもらいました。 *****
「波乱の90年でしたね。私の人生」 福島県南相馬市原町に愛猫と暮らす日高美奈子さん(90)はつぶやきました。
日高さんは2008年に夫を亡くして、それからは猫のミイコと“二人きり”で生きてきました。 2011年3月11日の東日本大震災発生時、日高さんは自宅の庭にいました。春を前に菜園の土を耕そうとしていたのです。突然襲い掛かった震度5強の激しい揺れ。土に挿していたスコップにつかまっていつ終わるとも分からない地震の揺れに耐えました。 その時、現実のものとは思えない現象が目の前で起きたのです。 「屋根瓦がバタバタ落ちるでしょう。それに隣のアパートの前にあった車が踊ってるのね。ボンコ、ボンコと。あんなの初めて見た」 自宅は、海岸から3キロ内陸にあって津波が到達することはありませんでしたが、海に近かった妹の家が津波にのまれ、甥っ子など3人の親戚が亡くなりました。 東京電力福島第一原発では、全電源喪失によって原子炉の冷却ができなくなったため露出した核燃料がメルトダウンし、原子炉建屋が次々に水素爆発を起こしました。大量の放射性物質が放出され、原発から半径20キロ圏内に避難指示が出されました。 南相馬市原町の日高さんの自宅は福島第一原発から20キロをわずかに超えた距離にあったために、屋内待機指示が出ました。しかし、近所の住民の多くは避難指示の出た地区の住民につられるように郷里から離れていきました。
置いていった唯一の「家族」
日高さんは、隣家の家族とともに、彼らの会津若松にある実家に向かいました。しかし、家族同様の飼い猫のミイコを連れて行くことはできませんでした。 避難の途中、ある学校の前を通った時です。多くの人が布団や家財道具を抱えて校庭に立ち尽くしていました。避難してきた住民が多すぎて、体育館や校舎からあふれていたのです。その光景を目の当たりにし、日高さんは驚いたと言います。 「私の故郷で一体何が起きたのか――」 なぜ避難するのか? どの交通手段を使って避難すればよいのか? どこへ逃げれば良いのか? 現場は混乱していました。 日高さんは、体育館や公民館ではなく知り合いの家に迎えられたので、「自分はまだ恵まれていた」と言います。しかし、2週間経って、置いてきた猫のミイコが心配になり周囲の反対を押し切って原町の自宅に一旦戻りました。無人の故郷です。 「息絶えているかも」と覚悟していたミイコは、やせ細ってはいましたが生きていました。