「空襲」と「原発事故」 時代・土地に翻弄された90歳 ~福島県・南相馬 日高美奈子さん~
工場全体の死者は92人にも上っていました。幸いにも原町高等女学校の生徒に死者はなく、3人が怪我をしただけでした。
100キロ離れた父親現る
空襲の翌日、日高さんの父親が工場に突然姿を現しました。地元で「女学校の生徒が空襲で全員犠牲になった」との情報が広がり、100キロほどの長距離を、自転車をこいだり、遺体運送用のトラックに乗せてもらったりして急行してきたそうです。 「先生とうちの父と同級生のお父さんと3人で来て、もうみんなでわあわあ泣いてね。そのとき、父が持ってきたおむすび、(同級生が)15人だって聞いていたから15個持ってきたのかね。それ、みんな泣きながら食べてね」
この空襲で、郡山市では工場勤務者や一般住民ら460人もの死者が出ました。特に最も被害の大きかった「保土谷化学郡山工場」では、白河高等女学校を始め勤労動員された女学校生、中学生の30人が命を奪われました。
“私の戦争”を伝えたい
日高さんは、戦後40年の1985年に自らが中心になって空襲体験者の聞き取りを集めた「学徒動員から40年-郡山空襲の思い出-」を編さんしました。その後も、同窓生たちと集まっては勤労動員と空襲について語り合ってきましたが、ここ10年はそうした集まりも途絶えました。 一緒に工場で働いた120人の同期生たちのほとんどは、鬼籍に入ったと言います。 「戦争の後は、平和でいい時代が続いたなって、震災さえなければ。戦争や空襲はつらい体験で、家族にもあまり話したことがなくって。この取材を受けるのも迷ったけど、今ここで私の言葉を残さないといけないと。あんな時代が二度と来ないように」
筆者がおいとまするとき、日高さんは足が痛むとおっしゃいながらも玄関まで見送ってくださいました。ミイコは懸命に前足で日高さんの足元にやってきて、抱き上げられていました。