「空襲」と「原発事故」 時代・土地に翻弄された90歳 ~福島県・南相馬 日高美奈子さん~
その後、ミイコを連れて茨城・石岡、東京・国分寺の親戚宅に身を寄せた後、2011年夏には原町の自宅に戻りました。今でこそ帰還が進んでいますが、当時は二人で人の姿の消えた故郷で身を寄せ合って暮らしてきたのです。私が訪ねた時、歳をとって目が見えず後ろ足が動かなくなったミイコは日高さんに甘えていました。 原発事故からしばらくは、放射能への恐怖から庭の畑で丹精込めて作ったささやかな作物も食べることができなくなり、庭木も切り落としていたと言います。 そのため、日高さんは、自動車を運転してお店のある北の鹿島区に食料など生活物資を買い求めに行っていました。 「本当に(街に)人影がないの。歩いている人誰もいないし、車も通っていない。そうして、うちに帰っても近所には誰もいない」
75年前には戦争に巻き込まれ
実は私が日高さんを訪ねたのは太平洋戦争中の体験について伺うためでした。福島は、東北地方で最も数多くの空襲を受けた県です。特に終戦4か月前の1945年4月12日に米軍のB29が実施した郡山空襲は激しく、400人を超す犠牲者が出ました。日高さんはまさにそこにいたのです。 福島県には海に面する「浜通り」、内陸の「中通り」、そして「会津」の3地域があります。日高さんの暮らす南相馬は「浜通り」ですが、郡山は「中通り」の拠点都市で、東北有数の工業地帯でした。
「保土谷化学」、「日東紡績」、「三菱電機」、「中島飛行機」などの工場群があり、当時はいずれも軍需品の製造をしていたため、空襲の標的になりました。 そうした工場では、男性労働者の多くが戦地に召集されたため、それを補うために当時の高等女学校や中学校の生徒が勤労動員されたり、未婚女性は女子挺身隊として送り込まれたりしていたのです。
同級生らと号泣、「母ちゃん…」
日高さんは、当時通っていた原町市の原町高等女学校から同級生120人とともに郡山市の「日東紡績富久山工場」に行きました。1944年の10月のことで、日高さんはまだ14歳でした。仕事は耐火レンガの製造で、原料を一輪車で運んだり、窯の中に成形されたレンガを入れたり、出したりの重労働でした。 麻の前掛けをして汗と油にまみれて働きました。そんなきつい仕事の後に2時間勉強して就寝。14歳から15歳の少女たちのことです。遠く家を離れた寂しさがつのりました。